第五十四話 カミカイヒ、直撃す
「ミーアさま!」
会場内が騒然とする中、アンヌが小走りにやってきた。
「あら、アンヌ。うふふ、どうでした? わたくしの、ホースダンスは」
東風から降りたミーアは、ニッコリ微笑みつつ聞くが……。
「それよりも、お怪我は本当にありませんか?」
アンヌは心配そうな顔で、ミーアの身体を見て回った。
「ええ。なにも問題はございませんわ」
「そうですか……よかった。あ、こちらをどうぞ」
そう言ってアンヌが差し出してきたのは、月雫レモンティーの入った水筒だった。
「あら、ありがとう」
早速、水筒に口を付けたミーアは、口の中に広がった風味に、思わず、ほふぅっと息を吐く。
舌の上に感じる果実の酸味、紅茶の芳しい香りが、なんとも心地よい。喉を潤す感覚は、熱すぎず、冷たすぎず、ちょうど良かった。
「ふふふ、さすがアンヌですわ。とっても美味しい」
笑みを浮かべるミーア。アンヌは、嬉しそうに微笑み返してから、不意に黙り込み……。
「本当に、ご無事でホッとしました。あの……ところでミーアさま? つかぬことをお聞きしますが……今回の風は、わざとではありませんよね?」
「はて……? わざと……とは?」
きょっとーんと不思議そうに首を傾げるミーアに、アンヌはとても真剣な顔で言った。
「あの風はミーアさまが起こされたものだったとか、そんなことはありませんよね? あるいは、あの風が吹くことを予想していた、とか……」
「……な、なぜ、そのような話に?」
一瞬、混乱してしまうミーアだったが……。
「ミーアさまは天を操る、と騎馬王国の人たちが言っていました」
「ああ……」
確かに、何人かの方たちは言いそうですわ! などと納得しつつも、ミーアは思わず眉をひそめて……。
「そのような力、わたくしにはございませんわ。あの風も完全に想定外のことでしたもの」
きちんと否定しておく。なにしろ、アンヌの妹は、エリスである。あの、ミーア皇女伝をこの世に生みだしたエリスなのである。
こんな話を聞かれたら、どんなことになるか……想像するだけで寒気がするミーアである。
「本当に……?」
「ええ! もちろんですわ。わたくしには、そのような力はございませんわ」
断言してやると、アンヌは、ホッと胸に手を当てて……。
「そう……ですか……良かった」
「はて? 良かったとは……どういうことですの?」
そう問いかければ、アンヌは、極めて真面目な顔で、
「もしも、わざとだったら文句を言っているところです。危ないことをして、心配かけないでください! って……」
「まぁ、アンヌ。あのような風を起こす力を持つわたくしに諫言とは……なかなかに命知らずの蛮勇ですわね」
冗談めかして言うミーアに、アンヌは小さく首を振った。
「たとえミーアさまが天を操る魔法が使えたとしても、それを悪用しないって、私は信じてますから。私が怖いのは、ミーアさまがそれを使って、ご自分を危険な目に遭わすような、無茶をなさることだけです。だから、ミーアさまをお諫めすることを躊躇うことなんか、あり得ません」
「アンヌ……」
忠臣の小動もしない信頼に、思わず感動するミーアである。
「ミーア!」
アンヌに続いて、アベルがやってきた。走ってきたのか、その顔にはほんのり朱が差していた。
「あら、アベル。どうしましたの? そんなに慌てて……」
「いや、その……」
アベルは、ミーアの顔を見て、一瞬、ホッと安堵の笑みを浮かべてから、
「怪我がないか心配だったから……。少し抜け出して様子を見に来たんだ」
「まぁ、あなたもですの?」
うふふ、っとおかしそうに笑ってから、ミーアは、その場でくるりん、っとターンして見せる。
「ほら、この通り、なにも問題ありませんわ。バノスさんが守ってくださいましたし……」
「そうか……。いや、見ていれば問題ない、とはわかっていたのだが……」
アベルは小さくため息を吐き、
「どうも、ダメだな……君のことになると、大丈夫だとわかっていても、冷静ではいられなくなる……」
自嘲するように笑った。
「まぁ! アベル……」
ちょっぴり大人びてきたアベルが、ものすごーく真剣に自分のことを心配してくれている……そう考えただけで、頬がちょっぴり熱くなってくる。喉もカラカラに乾いてきて、上手く言葉が出ない。
実になんとも、恋する乙女なミーアなのであった。
さて、二人の会話が終わるのを待ち受けていたかのように、今度はルードヴィッヒが近づいてきた。会の進行を委ねられている彼は、ごくごく真面目な口調で告げた。
「失礼いたします。ミーアさま、この後、閉会のご挨拶をしていただきたく思うのですが……」
「ああ。そうでしたわね」
それから、ミーアは空を見て……。
「風も強くなってきているようですし、早めに閉じなければなりませんわね」
観覧席のほうに向かおうとしてから、ふと、ミーアは思った。
――レッドムーン公の怒りは……鎮まったかしら……?
目を凝らしても、ここからではよく見えないが……つい先ほど、顔が赤くなるほど怒っていたマンサーナである。ミーア自身に対してではないとはいえ……今すぐに近くに行くのは、少々気が引けて……。
「……ふむ、そうですわね。では、今日の会に相応しく、馬に乗り、会場を走りながら終わりの挨拶をすることにいたしましょうか……」
っと、そこで、ミーアは良いことを思いつく。
――あ、そうですわ。レッドムーン公のご機嫌取りのために、最後の挨拶は、夕兎に乗りながらさせていただくというのはどうかしら……。
仕方がなかったとはいえ、レッドムーン家の良馬を、完膚なきまでに負かしてしまったのだ。少しフォローが必要かもしれない。
――それに、あの子も蛍雷に負けてへこんでいるかもしれませんし、ここは、名誉挽回のために目立つ機会を用意してあげて……。
「馬に……? それは……先ほどのアクシデントで怪我などがなかったことを、みなに明らかにするため、でしょうか?」
「え? ああ……ええ。まぁ……それもございますわね。うん」
アンヌとアベルが心配で駆け寄ってきたぐらいだ。他にも、心配に思っている者があるかもしれない。
腕組みしつつ、うんうん、っと頷くミーアに、唐突に、ルードヴィッヒが頭を下げた。
「申し訳ありません。ミーアさま……。あの障害物を作らせた私のミスです」
「あら? 無理に責任を背負いこもうとするなんて、あなたらしくありませんわよ、ルードヴィッヒ」
ちょっぴりへこんだ様子のルードヴィッヒに、ミーアは穏やかに微笑みを向ける。
「あれは、誰のせいでもありませんわ」
きちんと言っておく。
もしも、ルードヴィッヒが、今回のことをきっかけに過剰に自重するようなことがあっては、いろいろなことに支障が出る。
彼には元気はつらつ、やる気を持って職務を全うしてもらわなければ困るのだ。
「このように、急に風が吹いてくることなんて、誰にも予想がつかなかった……わたくし自身にだって、予想がつきませんでしたわ」
自分にもわからなかったんだよぅ、ということを、抜け目なく付け足しておく。
ルードヴィッヒはそんなことないだろうなぁ、とは思うものの、万が一、アンヌのような疑いを持ったら大変だ。
あの風がミーアのせいだったり、ミーアに予想できるものであったりした場合、最悪、ミーアのせいで、ルードヴィッヒの落ち度を作ってしまいかねなかったわけで。
しっかりと否定しておく必要があったのだ。
「ミーアさまにも……おわかりにならなかったと……?」
「ええ。もちろんですわ」
そう言っても、ルードヴィッヒは、まだ難しい顔をしていた。
ゆえに、ダメ押しとばかりに、ミーアは言っておく。
「わたくしたち人間は……風がいつ吹くのか、まったくわからないもにょ……」
“わからないものではないかしら”と言おうとしたミーアであったが……久しぶりに噛んだ。
アベルとのやり取りで緊張してしまい、口の中がカラカラになっていたのが原因だ。アンヌのレモンティーを飲むのが足りなかったのだ!
このまま「ではないかしら」と続けた場合「でゅえはにゃいかしら?」などと、ちょっぴり情けない姿を晒しそうな気がする。
ダメ押しの……決めるべき場面でのしくじりを避けたいミーアは、脳内で刹那の軌道修正。噛まなそうな箇所まで言葉を飛ばした。すなわち!
「……かしら?」
舌をあまり使わずに良いところまで一気にジャンプ! 幸い、そちらは噛まずに済んだが……。
――くぅ、肝心なところで噛むとは、我ながら不覚ですわ!
っと若干渋い顔をしつつ、誤魔化せたかなぁ? などと、ルードヴィッヒの顔を見つめる。
ルードヴィッヒは、ミーアの言葉をジッと静かに聞いていたが……やがては、何事か感じ入った様子で頷いて……
「ミーアさまのお心、よく……わかりました」
短く言って、深々と頭を下げた。
どうやら、納得してくれたらしいルードヴィッヒに、安堵しつつ、ミーアは夕兎のほうに向かった。
「わたくしたち人間は……風がいつ吹くのか、本当にわからないもにょ……かしら?」
ルードヴィッヒは、投げかけられた言葉に、戦慄を覚えていた。
「本当にわからないものかしら?」
この問いかけは、ただの問いにあらず。それは、修辞表現が施された疑問形……すなわち、反語ではないだろうか? とルードヴィッヒは考えたからだ。
「本当にわからないものかしら?」
その後には、きっとこのような言葉が続いたのではないだろうか。すなわち、
「本当にわからないものかしら? 否、そんなはずがありませんわ……」
っと。
なるほど、ミーアは確かに、今回のルードヴィッヒの失態を咎めない。ルードヴィッヒが風が吹くことを予想できなかったのは、仕方のないことだと思っているからだ。
されど……そのうえで、ミーアは問いかけてきたのだ。
“本当に、わからないものと思っているのか?”と。そして、
“いつまでも、このままでいいのか?”とも。
――そうだ……そもそも、最近の小麦の不作も、寒波のせいで引き起こされているもの。我ら人間は、明日の天気すら知ることはできない。不覚にもそう思っていた……。だが……。
ミーアは示したのではなかったか?
数年後の冷夏を。それに伴う小麦の不作と飢饉の発生を。
だからこそ、備えることができたのではなかったか?
――ミーアさまがいる間は良い。けれど、ミーアさま亡き後の帝国、未来の帝国を生きる者たちが、天の気まぐれに翻弄され、飢饉に苦しむようなことがないようにしろ、と……ミーアさまは言っておられるのではないか?
いつ風が吹くか、明日の天気はどうか?
それを完璧に予測することはできないにしても、限りなく精度を上げることはできるのではないか?
そのためにどうすれば良いか……。腕組みし、真剣な顔で考え込むルードヴィッヒであった。
さて……まぁ、これはまったくもって関係のない話ではあるのだが……。
この数年後、聖ミーア学園に二つの学科が新設されることとなった。
一つはミーアが着想を得た馬の知識を学ぶ総合馬類研究学科。そしてもう一つは、気象を研究する学科である。
この二つの学科はそれぞれ、ミーアネットの輸送部門と、農業技術開発部門に、多大な貢献を果たしていくことになるのだが……。
まぁ、それは、完全なる余談なのであった。