第四十九話 誤算……ミーア、慧馬の乗馬スキルを盛大に見誤る!
二頭の馬がスタート地点についた。
勝負の気配に昂ぶる馬もいる中、夕兎と蛍雷の二頭は、いずれも落ち着き払った態度をとっていた。だが、その質は幾分異なるようだった。
貴公子然とした、どこかかしこまった態度の夕兎。それは、貴族の馬たる気品ある態度、周りに見せるためのものだった。
対して蛍雷は、ただ静かに、目の前のコースに意識を集中していた。それは、戦に集中する戦士の顔だった。
さすがは、火の一族が誇る最高の月兎馬、と言ったところだろうか。
実際に戦場に出たことがある馬とない馬との違いが、そこに現れているように、ミーアには感じられた。
――ふむ、恐らくいろいろな状況を走り慣れているのは蛍雷のほうでしょうけれど……しかし、夕兎とて、まっとうに走ればとても速い馬のはず。
ミーアの見たところ、走るコースに荒れはない。夕兎を動揺させるような、アクシデントのもとはない。つまりは、純粋な速さ勝負となるだろう……。
――わたくしが勝負した時には作戦が上手いことはまりましたけど……この状況ではなかなか難しい。慧馬さんは、どう考えているのかしら?
大丈夫だとは思いつつ、わずかばかり不安を感じるミーアである。
ちなみに作戦とは、無論『荒嵐』が考えた作戦、である。
馬が走り、馬が考える。そして、ミーアは頭を空っぽにして、ただただ走りやすいように馬に合わせることにのみ集中する。それこそが、理想的な役割分担と言えるだろう……そうだろうか?
徐々に高まりつつある緊張感、審判係の者が旗を上げ……。振り下ろし、叫ぶ。
「はじめっ!」
スタートの合図と同時に、二頭の馬が飛び出した。
先行したのは――慧馬の乗る蛍雷だった!
ぐんぐん、っと見る間に加速、夕兎を引き離しにかかる。夕兎も追いすがるが、その差は徐々に開いていき、第一コーナーを曲がった時、二頭の差は一馬身ほどになっていた。
夕兎が……完全に置いていかれたのだ!
「おおっ! すごいですわ!」
そう快哉を上げるミーア。見守る観客からも盛大な歓声が飛んでいた。
――うふふ、これまでで最高の盛り上がりですわ。これだけ盛り上がれば、レッドムーン公にもご満足いただけるのではないかしら?
などと、大満足なミーアだったが、すぐにその笑顔が凍り付くことになった。
ぐんぐん、加速する蛍雷。
「おおっ! 頑張ってくださいまし、慧馬さんっ!」
ミーア、歓声を上げる。
ぐんぐん、ぐんぐん、加速する蛍雷。それはまるで、空を舞うがごとく……。
「しかし、素晴らしい速さですわね……」
ミーア、感嘆のつぶやきをこぼす。
ぐんぐん、ぐんぐん、ぐんぐん、加速する!
ミーア、ここでふと思う。
――あら、ちょっと加速しすぎじゃないかしら?
などと。
この時、ミーアが感じ取った危機感は「ペース配分を考えろ!」とか、そういった次元のことではなかった。
慧馬は騎馬王国の人。火の一族を代表する馬の乗り手だ。後半で馬に息切れを起こさせるなどと言う無様なことはしないだろう。
また、後半息切れしそうな気配もない。生き生きと走る蛍雷は楽しげで、気持ちよさそうに走っていた。必死に追いすがる夕兎とヒルデブラントのほうが、むしろ苦しそうに見えてしまって……。
それほどまでに、慧馬と蛍雷の走りは圧巻だった。
圧倒的で、強くて、なによりも美しかった。
それは、ある種の極めた者たちの持つ美しさだった。
剣の達人、ディオン・アライアの剣術が人を魅了するほど美しいように。
あるいは、弓名人のルールー族の戦士たちの弓矢が、息を呑むほど美しいように。
慧馬と蛍雷の走りは、凄みのある美しさをまとっていた。
誰しもが見惚れるような、見事な走りだったのだ。
――あっ、これ、ヤバいですわ。
ミーアの直感が訴えていた。
てっきり慧馬は、小驪と同じぐらいの腕前だと誤解していた。
ヒルデブラントには余裕で勝ち、適度に魅了して、彼を騎馬王国へと誘ってくれる……その程度の腕前を期待していたのだ。だがっ!
――これはあまりにも……あまりにも圧倒的過ぎますわ!
第二コーナーを曲がった時、その差はじりじりと開いて三馬身になっていた。
一瞬、ヒルデブラントが最後の最後で追い上げて勝つことを狙っているのではないか? と疑うミーアであったが……彼の顔を見て違うことを悟る。
焦り、懸命に夕兎に指示を出すヒルデブラント。だが、慧馬は……そもそも、蛍雷に指示を出していない。ただ、馬に身を任せ……否、まるで馬と心を通わせているかのように、人馬一体となってコースを駆け抜ける。
それは、それまでの、すべての競技がかすむほどの、凄味のある走りだった。
あれだけ場を盛り上げたバノスの競技すら、すでにみなの記憶からは消えているのではないだろうか……?
ミーアは、観覧席のほうを見上げ、マンサーナの顔を窺う。見たところ……慧馬の走りに釘付けになっているっ! 口をあんぐり開けて、無駄のない見事な走りを見守っている。
たぶん、先ほど大活躍を見せたバノスのことなど、とっくに記憶の彼方に投げ去っているだろう。
ちなみに、皇帝陛下のほうは両腕をいい感じに組んで、筋肉の具合を見ているようだった。こちらは、まだ、バノスの競技を覚えているみたいで何よりであるが……。
――いえ、お父さまのことは、どうでもいいんですわ。それより、レッドムーン公の頭からもバノスさんの印象が薄れてしまうのは望ましくありませんわ。くぅ、誤算でしたわ!
せっかくのバノスの奮戦も、こんな華麗な走りを見せられたら、忘れてしまうに違いない。
――小驪さんとは比べ物にならない騎乗ですわ。わたくしですら、太刀打ちできるかどうか……。
ゴクリ、と喉を鳴らすミーア……。
ナチュラルに小驪より自分のほうが乗馬上手だと確信しているミーアである。
なるほど、確かに、ミーアが馬合わせに勝ったという事実はある。
確かに、それだけを考えれば、ミーアの乗馬技術は小驪より上と言えるだろう……言えるかもしれない……のだが!
なぜだろう、微妙に納得がいかないような気がしてならない。不思議なことである。
まぁ、それはともかく……。
――うう、ヒルデブラントを魅了してくれるのは良いのですけど……やりすぎですわ。これでは他の方たちをも強力に魅了してしまいそうですわ。
ミーアは歯噛みしつつ、会場に目を向ける。
つい先ほどまで沸きに沸いていた会場は、打って変わって、しんと静まり返っていた。
思わず息を呑むほどに美しい、見惚れるような乗馬術。それは、帝国の天馬姫()とは、一味も二味も違う、本物の乗馬上手の騎乗だった。
――ぐぅ、みなさんが、見惚れておりますわ。まさか慧馬さんがここまで魔性の女であったとは……。
ギリギリと歯ぎしりするミーアを尻目に、慧馬を乗せた蛍雷は第三コーナーを曲がった。
その差はさらに開いて四馬身。
懸命にヒルデブラントが鞭をしならせるが……夕兎の走りは伸びなかった。
対照的に、慧馬と蛍雷はますますリズムに乗る。軽やかな足運びに、観客が熱狂する。
っと、その時だった。
ミーアは、唐突に気付く。
――あ、あら? っていうか、わたくし、この後で馬に乗らなければいけないんじゃ……え? このものすっごーい空気の中を、わたくしが、乗るんですの……?
などと焦り始めるミーアであったが、さらにミーアに追い打ちをかける事態が間近に迫っていた。
それは……。