第四十八話 いよいよ、始まるメインレース
――ふむ、なにやら、寒気を感じましたけれど……。
ミーアは、キョロキョロと辺りを見回した後、観覧席のほうに目を向けた。そこでは、皇帝マティアスとレッドムーン公マンサーナが楽しげに談笑していた。
こう……肘を曲げて力こぶを作り、それを指さし、今度はバノスのほうを指さす。
恐らく、バノスの強靭な肉体と強兵ぶりを二人で称えているのだろう。
それは、ミーアとしては望むべき展開……のはずなのだが、なぜだろう。ミーアには、なんとも言えない嫌ぁな予感がまとわりついていた。
――いえ、まぁ、考えすぎですわね。うん。
結局、競技は、バノスの圧勝に終わった。馬上剣術においても無類の強さを発揮したバノスは、レッドムーン私兵団の代表を圧倒。見事、皇女専属近衛隊隊長の面目躍如となったわけだ。
「まさか、バノスさんがあれほど強いとは……これは、意外な誤算でしたわね」
「ふっふっふ、誤算などではありませんよ。ミーアさま」
見ると、ルヴィが得意げに鼻を膨らませていた。
「バノス隊長ならば、あのぐらい、簡単にやってのけます。片手でも楽勝だったはずです」
片手で馬を操りながら剣を振るのは不可能なのでは……などと思わなくもないミーアだったが、口に出すような野暮はしない。恋する乙女に水を差すなど無粋極まるではないか。
ニッコリ笑って、ミーアは言った。
「それは、とても心強いことですわ。まぁ、なんにせよ、レッドムーン公へのアピールは十分にできたはず……」
そうして、満足そうに頷きながら、
「後は、ヒルデブラントが上手いこと餌に釣られてくれれば、我が計略なれり、ですわ。慧馬さん、頼みましたわよ」
視線を転じた先、ちょうどタイミングよく、慧馬とヒルデブラントが登場した。
二人の乗った見事な月兎馬に、会場内の空気が変わる。
「おお、あれは……」
「あれがレッドムーン公が誇る月兎馬『夕兎』か……。実に見事な毛並みだ」
「いや、しかし、ミーア姫殿下のご友人の乗る馬も素晴らしい馬だぞ。あのしなやかな後ろ足を見ろ。実に美しい……」
ゴクリ、と喉を鳴らす、両陣営の兵士たち。
その様子を見てミーアは察する。
――なるほど、騎馬王国だけでなく、我が帝国にも結構な数の馬好きがいるみたいですわね……。ゴルカさんとか一部の方だけかと思ってましたけど……。
潜在的ウマニアの存在を発見するミーアである。
――ふむ……。これはもしや、ミーア学園で馬の研究を始めたら、興味を持つ方がいるのではないかしら? それに、場合によっては、協力を申し出てくる貴族もいるやもしれませんわね……。
とかく学校経営にはお金がかかる。そして、若干、改善したとはいえ、未だに帝国の財政は厳しい。にもかかわらず、相変わらず無駄遣いをしやがる貴族はそれなりにいるわけで……。
――どうせお金を使いたいのなら、ミーア学園のために使わせるのがいいのですけど。その時には自分から喜んで出させるのが、さらによろしいですわ。ふむ……。
そこで、馬である。
馬の研究ならば、いろいろと役に立つし、将来的には、商売に繋がるかもしれない。
――馬を売るようなことは、騎馬王国の方々が好まないでしょうけれど……馬の怪我を治す方法の研究だとか、後は馬乳酒など、馬の乳を使った食べ物作りというのであれば……。それに、なにより良き馬を育てる技術であれば、むしろ興味を持つはず……。であれば……輸出も視野に……。
ミーアはニンマリと頷く。
「なるほど。いけるかもしれませんわね。騎馬隊の強化にも繋がるでしょうし、輸送にだって馬は必要。なにより、なにかあった時に逃げるのは馬……。いいですわね、馬の研究!」
「ミーアさま? どうかされましたか?」
不思議そうな顔で尋ねてくるルードヴィッヒに、ミーアは小さく首を振った。
「いいえ。なんでもありませんわ。ええと、ちなみに、あの二人の勝負は、何周勝負なんですの?」
「一周です。月兎馬の速さが映える距離なのではないかということでしたので……」
「なるほど。純粋な速さ勝負ということですわね」
確かに、それは、月兎馬の勝負に相応しい。ミーアが、騎馬王国での馬合わせに勝てたのは、それが持久力勝負の長距離走だったからだ。山族の誇る月兎馬『落露』と純粋な速さ勝負をしていたら、きっとミーアは負けていただろう。
――東風は良い馬ですけど、向き不向きと言うものがございますものね……。
そして、月兎馬の真価が現われるのは、やはり、この短距離走だろう。
自慢の馬を披露するためだろう。慧馬とヒルデブラントは並んで、観覧席の前に行き、それから、両陣営の前をゆっくりと歩く。
ちなみに、二人はどちらの陣営にも属さない。いわば、特別ゲスト扱いである。
それゆえに、なんのしがらみもなく、両陣営の者たちは応援することができた。
さて、二人が近づいてきたところで、ミーアは声を上げて応援する。
「慧馬さんっ! 頑張ってくださいまし! ヒルデブラントもほどほどに!」
心からのエールを慧馬に、形ばかりのエールをヒルデブラントに送るミーア。
それに応えて、騎手二人は笑みを浮かべて手を振った。
――ふむ、あの顔……。慧馬さんもやる気がみなぎっておりますわ。これは、一安心ですわね。
ディオンを前に怯えていたのも今は昔。
勝負に集中する慧馬を見て、一安心のミーアであったが……。
彼女は気付いていなかった。すでに、危険な種が蒔かれていたということ……。
慧馬の走り、そこに含まれる兆候。それをミーアが感じ取ったのは、スタートの合図が鳴って、少ししてのことだった。