第三十七話 平和の祭典と平和じゃないミーア
「ご機嫌麗しゅう。ミーア姫殿下」
「あら、ヒルデブラント。ふふふ、なかなか、気合が入った格好をしておりますのね」
観覧席にやってきたヒルデブラント・コティヤールは、すでに乗馬しやすい服に着替えていた。キリリッと背筋を伸ばした彼は、快活な笑みをもって答える。
「今すぐにでも、競技に臨める心持ちでおります。なにしろ、従兄弟である私の失態は、ミーアさまの失態。無様な姿など見せられようはずもありますまい」
「ふむ、その意気や良し、ですわね」
気合が入った様子のヒルデブラントに、ミーアはニッコリと……ほくそ笑む。
――いい感じですわ。本気で戦ってこそ、負けた時の衝撃も大きいはず。慧馬さんに完膚なきまでに負ければ、俄然、騎馬王国への興味が生まれてきて、ふふふ……。計画通りですわ。
ミーアは、自らの計画が順調に進んでいっていることを疑わない。
今回の出来事に関しては、本当に、すべてが順調に行っていると信じ切っていた。信じ切っていたがゆえに……わずかなほころびに、今まで気付かなかったのだ。
「そうですわよ? あなたの失敗はわたくしの恥に……うん?」
生じたのは、刹那の違和感。
なにかが、ミーアの危機意識を刺激していた。
ゾクリ、と背筋を駆け上がった直感、それはまるで、波の頂上にいると思い込んでいたら、突如として後方に巨大な波が現われて……、ああ実は、自分は今まさに波に呑み込まれそうになっていたのだ、と気付いた瞬間のように……。
――よくよく考えると……ヒルデブラントは、わたくしの従兄弟ですわね? だから、彼のミスは、わたくしの恥になる……。うん、間違ってはおりませんわ。おりませんけれど……あら?
そうして、ミーアは、思ってしまうのだ。
――ここで、ヒルデブラントが「婚約話を断って、勝手に騎馬王国に行く」などと言い出す無礼を働いたら……それって、わたくしへの印象の悪化を招くのでは……?
なにしろ、マンサーナは、ヒルデブラントとの縁談が、ミーアとの関係強化に繋がると考えている。そのぐらいには、ヒルデブラントのことを「ミーアの身内」と把握しているのだ。
そんなヒルデブラントが、勝手なことをして、騎馬王国に行ってしまったら……マンサーナは、気分を害さないだろうか?
そして、その気分を害させたのは「ミーアの身内」「ミーアの従兄弟」なのだ。
――あっ、こっ、これは、盲点でしたわ。くぅっ、これが一番、穏当に破談に導けると思っておりましたのに……。想定外ですわ!
知らず知らずのうちに油断していたことに、ミーアは歯噛みする。
けれど、それは、仕方のないことだったかもしれない。
なにしろ前の時間軸では、ヒルデブラントは早々に死んでしまい、ミーアはその死を悼んでいる余裕はなかった。そして、過去に舞い戻った、やり直しの時間軸。ミーアは彼と親戚づきあいをしている余裕はなかった。
要するに、ミーアの中で、彼に対する印象が薄すぎたのだ。
結果、ミーアはヒルデブラントを身内としてとらえきれていなかった。彼の失敗が自分の恥になると言いつつ、それを実感することができていなかったのだ。
――不覚ですわ……。これは、なんたる不覚……。
愕然としたミーアであるが……すぐに立ち直り、軌道修正を図る。
それは、今朝の、料理長のお料理がとっても美味しかったから。
乗馬大会だから、今日はサービスです、と言って出してくれたデザートが……新しく輸入した甘い豆を使った料理が、大変に美味しかったから……。
その甘味をエネルギーにし、ミーアの脳が活動を開始する。
――やはり、基本はどちらにも得になること……。つまり、レッドムーン公にとっても、ヒルデブラントとの縁談がなくなったほうが得となるような状況を作り出す……それが無理だとしても、せめて「まぁ、いいか」と思うぐらいの状況を作り出すことが肝要。そうすれば、レッドムーン公の、わたくしに対する印象悪化も避けられるはず。となれば……。
ミーアはチラリと自らの皇女専属近衛隊のほうに目を向ける。
幸いなことに隊長であるバノスも、競技に参加する予定だ。しかも、例の五種競技に、である。
強兵好きなレッドムーン家の話は有名だ。アピールすることは十分可能ではないだろうか?
それから、ミーアは、ルヴィのほうに視線をやる。
シュトリナやアベルと挨拶を交わすルヴィであったが……あれからバノスとなにか進展があったという話は聞かない。ついぞ聞かないっ! まったくもって、微塵も聞かないっ!!
――ルヴィさんも、意外と小心者ですわね。わたくしの親戚筋の方ですのに……。まぁ、エメラルダさんもサフィアスさんも、割と小心者ですし、わたくしとリーナさんだけが例外と言うことなのかもしれませんけど……。
なぁんて考えつつも、ミーアは小さくため息を吐いた。
――仕方ありませんわ。放っておくつもりでしたけれど、わたくしの方から、マンサーナさまに、バノスさんのことをプッシュして、後押しさせていただきますわ。
「ははは、ヒルデブラント殿が、いかに夕兎を乗りこなすのか、楽しみだ」
レッドムーン公マンサーナの言葉で、ミーアはハッと我に返る。それから、やや慌て気味に、
「それはもちろんですけれど、わたくしの自慢の皇女専属近衛隊の者たちの雄姿も、ぜひ楽しんでいっていただけたら嬉しいですわ。隊長以下、精兵が集まっておりますのよ?」
「ほう。それはとても楽しみですね。我がレッドムーン家の軍と、どちらが上か……」
ニヤリ、と口元に笑みを浮かべ、マンサーナは言った。
「ふふふ、負けませんわよ、絶対に」
ミーアはマンサーナと、ヒルデブラントを交互に見ながら鼻息荒く言うのだった。
こうして、平和の祭典のきっかけとなるものが開催された日のミーアは、あまり平和な心境ではいられなかったのだった。