第二十七話 皇女ミーアは”普通”を愛す
目立たないように、地味な服に着替えたミーアとアベルは早速、町へと繰り出した。
お付きの者はアンヌとディオンのみである。
「ふふふ、それにしても、帝都はいつでも変わりませんわね。賑やかで、活気があって」
道行く人々を眺めながら、ミーアは言った。
馬車から見る風景とは違って、こうして直接、町を歩くと、そこに吹く柔らかな風を感じることができた。
町には、その時々にいろいろな風が吹く。
祭りの熱気を乗せた風、人通りの少ない冬道の冷たく澄んだ風、革命期のピリピリと肌を刺すような風……。
今、帝都に吹く風は、どこか忙しなく、されど明るさを失わない風だった。
ミーアが慣れ親しんだ帝都の匂いだった。
そのことが、今のミーアには少しだけ嬉しい。
「おや、もしかして、ご不満ですか? 変わらないというより、代り映えがしない、と思って、それが気に入らないとか?」
からかうような……あるいは、試すような口調でそう尋ねてきたのはディオンだった。
その顔をジッと見てから、ミーアが答えようとした、その時だった。
不意に、ミーアの視界の端に、小さな子どもの手を引く女性の姿が見えた。
刹那、ミーアの脳裏に甦る光景があった。
ぐしゃり、と頭に何かがぶつかる音。
ねっとりと髪に絡みつく、腐った臭い。
驚き立ち止まったミーアの耳に突き刺さる、非難の声。
「お前らのせいで、私の子どもが死んだ。それは子どもに食べさせようとした卵だ!」
血走った眼で睨みつけてくる女性の顔。
そして……。
前の時間軸では、その事件以来、ミーアが帝都を歩くことはなくなった。
殺伐とした町を歩くことは、護衛を付けたとしても危険なことになってしまったからだ。
あの時の嫌な空気と比べ、馴染みある帝都の空気の、なんと優しく居心地のよいことか……。
――あの母親は、子どもを失わずに済んだかしら? それならば良いのですけど……。
ふと思い出した人の無事を静かに祈りながら、ミーアはディオンに応える。
「いいえ。ディオンさん。この変わらない『普通』が、どれほどの労力によって支えられているものか、わたくしはよくわかっているつもりですわ」
ミーアが知る限り、今のところ、どこかで疫病が流行ったということは聞かない。食糧の不足も聞かれはするものの、その都度、備蓄を供給し、解消している。
飢饉は起きていないし、それに伴う内乱も起こったという報告はない。
それらはすべて、食糧の輸送に関わる人たちと、皇女専属近衛隊の奮闘によるものだと、ミーアはよくわかっていた。
――食糧不足が起きても、すぐに救援が駆け付けると、人々が信じている。それが大事でしたわね。
あのクソメガネ……、ルードヴィッヒが嘆いていた言葉を思い出す。
「ミーア姫殿下のお仕事は、失墜した帝室への信頼を取り戻すことです」
彼はいつもミーアに、そう言い聞かせていた。
「というか、実際、ミーア姫殿下にできることは、そのぐらいですし……」
などと、思わずカチンとくる余計な一言と共に。
ぐぬっと唸りつつも、ミーアは反論を試みる。
「しっ、しかし、信頼を取り戻したところで、食糧が降って湧いてくるわけでもなし……。本当に意味があるんですの?」
「そうですね。少なくとも状況を悪化させる速度を緩めることはできるかと……」
ルードヴィッヒは肩をすくめつつ、続ける。
「もしも『待てば助けてもらえる』と思っているのなら、民は我慢しましょう。けれど、いつまで待っても救援が届かないと絶望すれば……自らの努力によって状況を打開しようとすることでしょう」
「自らの、努力?」
「そうです。貴族や商人を襲い、食糧を奪うことです。そうして起きた戦の火は、時に畑を焼き、輸送を混乱させ、さらなる被害を拡大させる……。それがさらに、食糧の不足を生み……」
「ますます状況が悪化する。負の連鎖ですわね……」
「なんとか、その連鎖を回避するために、帝室の信頼を回復させ、少しずつでも食糧の供給を復旧させる必要があるのです」
苦々しげな顔で言ったルードヴィッヒだったが……その努力は、実らなかった。
一度、崩れてしまった“普通”を回復するのは、かのクソメガネであっても容易なことではなかったのだ。
そんな苦い記憶が、ミーアに、心からの言葉を紡がせる。
「……わたくしは、この“普通”を誇らしく思いますわ。あの母親が、当たり前に愛しい我が子と笑い合える普通を、わたくしはなにより貴重なものと思いますわ」
ああして子どもと笑い合っている限り、あの母親が唐突に、腐った卵を投げつけてくることは、恐らくない。それは、いきなり断頭台の刃が降ってこないのと同様に、あるいは、いきなりディオン・アライアが斬りかかってこないのと同様に、である。
この“普通”を維持することこそが、断頭台の道を開かぬコツなのだ、と深々と実感するミーアである。
「普通は貴重、か……」
アベルは静かに、辺りを見回した。
「そうか。それが、ミーアが思い描く理想なのか……」
しみじみとつぶやくアベルを、ミーアは不思議そうに見つめる。
「アベル、どうかなさいましたの?」
「いや、なんというか、ミーアらしいなと思ってしまっただけさ。ああ、やっぱりミーアはミーアだ」
「ええと、それはどういう意味ですの?」
きょとんと首を傾げるミーア。であったが、まるでアベルに同意するように頷きあうディオンとアンヌの姿を見て、ますます怪訝そうな顔をするのだった。