第二十六話 慧馬、くーきを読む
「ご機嫌よう、アベル。朝食はもうお済みになりまして?」
「ああ。少し前にね。ベル嬢たちが誘いに来て……」
と言ってから、アベルは苦笑いを浮かべた。
「いや、孫娘にお嬢さん付けはおかしいか。なかなか、呼び方が難しいな。まぁ、それは良いのだけど、それよりミーア。例のヒルデブラント殿と慧馬嬢との乗馬対決に、君も出ると聞いたんだが、本当なのかい?」
「ええ、そうなんですの。例のヒルデブラントと慧馬さんの速駆け勝負だけしていただくつもりでしたけど、なんだか話が大きくなってしまって……。わたくしも最後のほうに少しだけ出馬する予定ですわ」
「そうか。そういうことなら、急いで約束の乗馬用の靴をプレゼントしなければならないな」
朗らかに笑いながら、アベルは言った。それを聞いて、ミーアは、思わず、自らの忠臣アンヌのほうに目を向けた。
――あら、もしや、アンヌ……これを見越してアベルに教えましたのね?
っと、目で問いかけると……アンヌは素知らぬ顔で、目を逸らした。
まるで、私はなにも知りませんよー? とでも言っているかのような顔で……。
――ふふふ、別のメイドがこんな顔をする時は、なにかよからぬことを企んでいる時ですけれど……。アンヌの場合には、よき企みを隠そうとする時ですわね。
“ありがとう”と口の動きだけで伝えてから、ミーアは改めてアベルのほうに目を向けた。
「しかし、レムノ王国の職人に頼もうと思っていたんだが、どうしたものか……」
アベルは、悩ましげな顔をしてから、
「帝国の、腕の良い職人がいれば、紹介してもらいたいのだが……」
「うーん……。そう、ですわね……」
ミーアは、小さく首を傾げる。
基本的に、ミーアは帝国皇女である……いや、まぁ、応用的に見ても帝国皇女であることは間違いないのだが、時折、確認しておかないと忘れられがちな事実なので、あえて、ここで強調しておきたい。
ミーアは、帝国の、皇女なのである!
ということで、ともかく、良いご身分なのだ、ミーアは。
だから、ドレスやら靴やらを、いちいち町に出て買いに行くなどということは、基本的にしない。城に職人や商人を呼びつけ、オーダーメイドで作らせるのだ。
しかし……。
――城に呼びつけた職人に作らせて、そのお金を払ってもらってプレゼントというのは、ちょっぴり面白くないですわね。
セントノエルにおいて、アンヌと一緒にお店を回った経験、さらに、コティヤール領で素敵な布を求めてショッピングをした思い出が、ミーアの脳裏を過ぎる。
お店の商品を見て回るのは、とっても楽しいのだ。
特に、ちょっぴり気になる男の子と一緒に、となれば、なおのことである。憧れシチュエーションなのである!
皇女の身分を隠し、街中を意中の殿方と歩く。広場でデートし、カフェでお茶をし、嘘を吐くと噛みつかれると噂の真実の聖女像の前で、キャッキャとするのは、ミーアの憧れシチュエーションなのである!!
ということで……ミーアは、アベルにおねだりすることにした。
「せっかくですし、デートがてら少し町を歩きたいですわね。アンヌ、申し訳ないのですけど、誰か、近衛隊の者にお願いしてきてもらえるかしら?」
ニッコニコ顔で、ミーア即決。そうと決まれば、護衛の手配をお願いすべく、即行動。
「かしこまりました、ミーアさま!」
一方で、アンヌの行動も迅速を極めた。デートと聞いて、俄然、鼻息が荒くなったアンヌである。疾風のごとく部屋から出て行ったアンヌを見送り……待つことしばし。
やってきたのは、
「ミーア姫。聞いたぞ。これから、町に出るそうだな」
火慧馬だった。
「あら? 慧馬さん、どうして……」
不思議そうに首を傾げるミーアに、慧馬はしたり顔で言った。
「先ほど、アンヌが話しているのを立ち聞きしたのだ」
堂々と胸を張り、立ち聞きを告白する慧馬。そんな彼女は、騎馬王国の衣服に身を包み、キリリと引き締まった表情をしていた。
「町には、あの燻狼や兄上の仇が潜んでいるかもしれない。ここは、ぜひ、我も護衛として共に……」
などと、気合満々に言い出す慧馬だったが……。
「やぁ、聞きましたよ、ミーア姫殿下。お出かけだそうで」
突如、聞こえた声にビクンっと飛び上がった。
「おや、これは、アベル王子も、お久しぶりです。それに、火の一族の慧馬嬢だったかな?」
ニッコニコ顔で現れた男、それは帝国最強の騎士、ディオン・アライアだった。
「あら、ディオンさん。なにか御用かしら?」
首を傾げるミーアに、ディオンは肩をすくめた。
「いえね。皇女専属近衛隊の連中が忙しそうにしていまして。そういうことなら、今回の護衛は僕が担当しようかな、と思いましてね……」
「あら、そうなんですのね……ふふふ、確かに、あなたが護衛に来てくれれば、怖いものなしですわね」
などと笑みを浮かべるミーアである。
かつては、ミーアにとって恐怖の対象であったディオンではあるのだが、幾度かの経験が、ミーアの見方を少しだけ変えていた。すなわち、
――よくよく考えれば、いかにディオンさんと言えど、なんの前兆もなく唐突に切りつけてくるような真似はしないはず。急には刃が降ってこない断頭台と同じですわ。大切なことは、その兆候を見逃さないこと。とりあえず、ディオンさんが『誰でもいいから切り倒したい気分』みたいな顔をしているのを見逃さないのが肝要ですわ。
ミーア、ジッとディオンの顔を見て……。
――うん、なんか、ご機嫌っぽいですし、今は大丈夫っぽいですわ。
そう判断する。ちなみに、その判断にはなんの根拠もない。
一方で慧馬はというと……突如、出現したディオン・アライアを前に、一切表情を変えないまま、すすすっと後退。
「……ああ、そうだった。よくよく考えれば、我は速駆けの準備をしなければならないのだった。うん、護衛は、ディオン・アライアがいれば問題ないだろう。うんうん」
ディオン・アライアの気配を読んで、そそくさと退散していく慧馬であった。