第二十話 自分ファーストの帰還と馬糞の天啓
ヒルデブラント・コティヤールについて、ミーアが記憶していることは、ほとんどない。
けれど、たった一つだけ、ミーアの脳裏に残っている記憶があった。
それは、そう……。まだ、ミーアが幼い頃のことだった。
コティヤール侯爵家を訪問したミーアは、たまたまヒルデブラントと顔を合わせた。
その日、遊びに来たミーアをおもてなしするために、伯父であるコティヤール候が用意したものは、大変、美味な特製のケーキだった。その際、ヒルデブラントも同席して、一緒に食べることになったわけだが……。
ふっわふわの、真っ白なケーキを口にした瞬間……五つ年上の、コティヤール少年は、叫んだのだ。
「なんだ!? このケーキ美味しすぎるっ!」
そして、言い放ったのだ!
「決めたっ! 僕、大人になったらケーキになるっ!」
と。
……それを聞いたミーアは思ったものだった。
「あ、こいつ、ちょっぴりお馬鹿……というか、チョロいやつですわ」
などと。
まぁ、だからと言って、人物的に好きだ嫌いだ、ということもないのだが。ただ漠然と御しやすい奴、という認識を持ったミーアである。
だからこそ、ミーアは困惑していた。
この目の前の好青年を、どうしたものか……と。
――こいつ……実になんともいいやつですわ。
快活な笑みを浮かべるヒルデブラントに、ミーアの笑みが引きつった。
その当時の裏表のない単純さはそのままに、貴族の常識とわきまえとを身につけた……結果として出来上がったものは、非の打ちどころのない好青年である。
――これは、困りましたわね……。ヒルデブラント……すっかり良い人になっておりますわ。これ、もしかして……ルヴィさんにとって、ものすごーく良い縁談なのではないかしら?
政略的にもパートナーとしても、文句のつけようのない相手。
そうだ、あのレッドムーン公ほどの男が、大切な娘のパートナーに選ぶような人物なのだ。ミーア程度が、ちょっとつつけば出て来るような問題があるはずもなく……。
「それはそれとして、ミーア姫殿下にも改めてお礼を申し上げたく思っていたのです。この度は、良き縁談をありがとうございます」
うむむ、っと考え込むミーアの前で、ヒルデブラントは頭を下げた。
「この度、コティヤール侯爵家とレッドムーン公爵家との間に、縁を結んでくださったのは、ミーア姫殿下だとお聞きしました」
「ああ……いえ、わたくしはなにもしておりませんけれど……でも、大丈夫なんですの?」
「はて? 大丈夫とは?」
「知れたことですわ。ルヴィさんは、上昇志向の方。黒月省の上を目指すと言っておられましたけど……、あなたはそれでよろしいんですの?」
基本的に、ティアムーン帝国の貴族の貴婦人というものは、軍務に関わろうなどと、物騒なことは言わないものだ。そのことに、不満はないのか? と問いかけるミーアであるが……。
「ははは。豪儀なご婦人ですよね。だが、それでこそレッドムーン公爵令嬢ではありませんか?」
なんでもないことのように笑って、ヒルデブラントは言った。
「先ほど、乗馬に力を入れていると申しましたが、私は、馬に乗る女性を美しく感じます。黒月省の上を目指すというルヴィ嬢の勇ましさにも、特に不快は感じませんし、できうる限りの応援をするつもりです。それに、マンサーナ殿は、名馬を求める私に、夕兎を譲るとまで言ってくださった。娘をよろしく頼む、と……そのお気持ちに応えたくもありますので」
そうして、実に模範的な回答を返してくるヒルデブラント。
――かっ、完璧ですわ。この縁談……なにも止める理由がございませんわ!
政略的にも、ヒルデブラントの人柄的にも心情的にも、どーこにも文句のつけようがない。
――ヒルデブラントも乗り気みたいですし……。これでは、どうにもできませんわ。
ミーアは目の前に、高い高い壁を見る。見上げるほどに高い、その壁を乗り越えることは、とても困難で……否、乗り越えるべき理由すら薄くて。
思わず膝を屈してしまいそうになるミーアである。
――ルヴィさんが恋心を諦めさえすれば、すべて上手くいってしまいそうですわね……。
改めて思う。いっそルヴィがバノスに告白してフラれてしまえば、万事上手くいくのだ。
失意のルヴィを励ますヒルデブラント。その構図は、実にしっくりくるし……。
いや、そもそもの話、貴族令嬢が平民の、それも年上の男に恋慕するなど、それ自体がただのわがままなのだ……。ルヴィの恋心は、貴族の常識とはかけ離れたこと。諦めて当然のことで……でも、だけど。
――ふむ、それではやっぱり、面白くないですわね……。
そこまで考えたうえで、ミーアは改めて、原点へと回帰する。
ミーアの原点、すなわち……自分ファーストへと。
結局のところ、ミーアは見たくないのだ。ルヴィが、貴族の常識などと言うつまらないもののために恋を諦めるところを。
ミーアが見たいのは、万難を排した情熱的な恋愛劇なのだ。
――それでこそ、心燃え上がる恋愛劇。それに、やっぱり、わたくしはハッピーエンドが好きですわ。加えて言うなら、わたくしのせいで恋を諦めた者が身内にいるという状況は、心安らかではいられないでしょうし……。
自分ファースト的にも、小心者の心臓的にも、ミーアはルヴィの味方をする必要があるのだ。
――だいたい、情熱的なルヴィさんに常識的なヒルデブラントでは……。
ミーアは、ふと思う。
「……はたして、相応しいと言えるのかしら?」
貴族として極めて常識的で、非の打ちどころのないヒルデブラント。
一方、貴族としての常識をかなぐり捨てても恋心を貫きたいルヴィ。
この二人が結婚することが相応しいこととは思えなかった。二人の価値観が違いすぎるからだ。
情熱の不均等は、不幸を招き……そして。
――わたくしを利するために組まれた縁談が不幸に終わる。もしそんなことになれば、わたくしのせいで、二人が不幸になった、と思われるのではありませんの?
それは、実になんとも嫌な事態である。できるだけ、誰からも恨みを買わず、ダラダラとベッドの上で過ごしたいミーアである。
みんなが自分を好いてくれて、時折、お菓子を持って遊びに来るのがミーアの理想。
できれば、誰とも敵対したくはないのだが……、さて、どうしたものか? とミーアは首を傾げる。
状況は、淀んだ水たまりのようなもの。今のミーアにはどうにもできそうもなくって……。
そんなミーアがすがるもの……それは、先ほど得た天啓。
――馬……。そうですわ。先ほど思いついた馬を利用して……。
そう、馬を使えという閃き。すなわち、馬糞の天啓である!
「それは……どういう意味でしょうか?」
不意の声。顔を上げると、ヒルデブラントがこちらを見つめていた。
完全無欠な好青年然としていたヒルデブラントの瞳に浮かぶ感情。それは、微かな怒り。
「私では……かの月兎馬に相応しくないと……?」
「馬……」
思わぬところに登場したキーワード。身を委ねるように、ミーアは頷き……。
「ええ、まぁ……」
次の瞬間、淀んでいた水に、小さな流れが生まれるのを感じた。