第十八話 ミーア姫……踏んでしまう!
皇女専属近衛隊の一隊に護衛されたミーア一行は、コティヤール侯爵家の別邸に向かった。
ちなみに全員、馬に乗って、である。
随伴者は、当初の予定通り慧馬とアベルである。
「そういえば、来るのははじめてですわね」
帝都の一角。貴族の館が立ち並ぶ地域に建つコティヤールの館を見て、ミーアは思わずつぶやいた。
基本的に、ミーアとコティヤール侯爵家との関係性は悪くはない。
コティヤール領は、織物の盛んな地。服飾業も発達しているため、幼き日のミーアはよく遊びに行き、いろいろと買い込んでいたのだ。可愛い姪っ子――というよりは、わがままな皇女という雰囲気が勝るミーアではあったが、伯父である侯爵もよく面倒を見てくれて、たびたび、素敵なドレスをプレゼントしてくれた。
いささかお高い手触りの良い布で、ぬいぐるみを作ってもらったりしたのは、良い思い出だ。
しかし、親しい親戚づきあいをしていたか、と言われると、実はそんなことはない。
ミーアにとっては、あくまでもコティヤールの織物が目的なのであって、特に仲の良い親戚がいたわけでもないわけで。必然的に、帝都の別邸に来るようなことはなかったのだ。
そんなわけで、ミーアがコティヤールの別邸に来たのは今日がはじめてということになるのだが……。
門衛とやり取りをした皇女専属近衛隊の兵が小走りに戻ってきて……。
「申し上げます。まもなく、ヒルデブラント・コティヤール殿がお迎えに参上されるとのこと。門をくぐったところで、少々、お待ちいただきたいとのことです」
ふと、見ると門衛は、馬に乗ってやってきたミーアに驚愕している様子だった。
――ふふふ、どうやら、馬に乗るわたくしの、堂々たるたたずまいに驚いているようですわね。
皇女ミーアは馬を嗜む。その話はかなり有名なことではあったが、実際に目にすると驚く者も多い。特に、姫君のお遊びと侮っている者たちは、ミーアの本格的な乗馬姿に度肝を抜かれるらしい。
なにしろ、ミーアにとって乗馬はお遊びなどではない。命綱の一本であり、しかも、その太さはかなり太い。
故にこそ、ミーアは馬を愛し、敬意を払うことを欠かさないのだ。
それはさておき、門衛の見とれるような視線を、ちょっぴり心地よく感じつつ……。心持ちドヤァっとした笑みを浮かべながら、ミーアは言った。
「そういうことでしたら、しばし、門の内側で待たせていただきましょうか」
そう言うと、ミーアは、馬を前進させた。それに合わせて、ミーアを守るように、二騎の騎馬が前に出る。右にアベル、左に慧馬を従えての堂々たる入門である。
「しかし、ずいぶんと立派な前庭ですわね」
門をくぐりぬけたところで一行は馬から降りた。
目の前には広い広い前庭が広がっていた。見渡す限りの美しい緑。手入れのされた木々と芝、そして、ところどころに何に使うのか、木製の柵のようなものが並べられている。
「あれは、騎馬を止めるための仕掛けだろうか?」
「そうですわね。なにかしら……」
ミーアが柵に近づこうとして、歩き出そうとした……まさにその時だった! ミーアの背筋に、戦慄が走った!
踏み出した足……。生じた音と、いやぁな感触……。ミーアには覚えがあった。
あれは、割と昔……。確か、セントノエルの浜辺に向かおうとした時に……。
恐る恐る、っと足を上げると……靴の底には……泥のような……その……ちょっぴり気になるナニカがついていた!
「なっ……こっ、これは、まさか……」
ふるふる、と震えるミーアだったが、近づいてきた慧馬が事も無げに……。
「ああ、馬糞だな」
聞きたくない言葉を言った!
そう……それは、乗馬部でさんざんに見慣れた、馬糞だったのだ!
「ぐ、ぐぬぬ、よりにもよって、なぜ、庭にこのようなものが……」
「別に、気にする必要はないぞ。ミーア姫。馬は聖なる生き物。だから、それは、別に汚くはない。畑に植えれば、植物を強くする、むしろ、恵みの産物と言えるだろう!」
快活な笑みを浮かべる慧馬だったが、ミーアはそんな気にはならなかった。
馬を愛し、敬意を払うミーアであるが、だからといって、馬糞までは愛せないのである。
――うう、なぜ、このようなことに……。
当然のように、テンションだって下がる。
しかも、今日履いていた靴は、ミーアにとって特別なものだった。ルヴィと乗馬対決をした時にも、狼使いから逃げ切った時にも、常にミーアとともにあった靴。
最近、サイズがちょっぴり合わなくなってきたし、少し傷も増えてきたけど、なんか、ちょっと変えるのは気が進まないな、なぁんて思っていた、愛着のある一品なのだ。
――うう、わたくしの、思い出の品が……。
「ミーア、もしよければ、新しい靴をプレゼントしようと思うんだが……」
などというアベルの気遣わしげな声も、ミーアの落ち込んだテンションを回復するのには至らず……至らず?
「まぁ! アベルからプレゼントなんて、嬉しいですわ!」
ぱぁ、っと笑顔を輝かせ、ミーアは歓声を上げた!
よくよく考えれば、愛着とか、特にありませんでしたわ! とばかりに、上機嫌に鼻歌を歌うミーア。
――ふむ。これは確かに、恵みの産物。むしろ、馬糞を踏んでラッキーだったかもしれませんわ! やはり、馬はわたくしの味方ですわ。
なぁんてことまで思ってしまう恋愛脳モードなミーアであった。
さらにさらに!
――ふむ、これはもしや、天の配剤かもしれませんわ。天がわたくしに、馬を使うと良いことがあると、教えているに違いないですわ!
こぉんなことまで考えてしまう上機嫌っぷりである。単純恋愛乙女なミーアなのであった。
「しかし、庭に落ちているということは、この庭で、馬を走らせているということか……」
アベルは腕組みしながら、庭を見回す。
「そうだろうな。我の見たところ、あの木の柵は、馬に飛び越えさせるための仕掛けのように見える。万が一、足が引っかかっても怪我をしないように、簡単に倒れるようになっているだろう?」
慧馬の指摘に、アベルは、ぽんっと手を叩いた。
「なるほど。確かに、あれでは騎兵は防げない。馬の訓練用のものだとすれば納得できるな」
と、その時だった。
「はいよー、シルバーアロー!」
などという威勢の良い声とともに、一頭の馬が駆けてくるのが見えた。馬は、こちらに真っ直ぐ向かってくることはせず、途中の木の柵をぴょん、ぴょん、っとジャンプで飛び越え、駆け回る。
まるで見せつけるように馬を乗りこなし、やってきた男……。それは、まさに、ミーアが会おうとしてきた人物で……。
「やあ、ミーア姫。ご機嫌麗しゅう」
颯爽と馬から降りたヒルデブラントは、ミーアの前で華麗な一礼を見せるのだった。