第七話 右腕に託して2 パティの秘密
さて、時間は少し遡る。
ミーアと別れた後、アンヌの家では、ちょっとした事件が起きていた。
「こちらへどうぞ」
眼鏡の少女、エリスの案内に素直に従い、パティたちは家の中へと入った。
そこは、貴族の屋敷――それこそクラウジウス家の屋敷とは比べ物にならないほどに小さくって……比べ物にならないほどに温かくて、居心地のいい家だった。
――別に、普通だ……。大したこと、ない。
パティは心の中で、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
――普通の家。平民の、つまらない家だ。
小さくため息を吐き、揺れそうになる心を、パティは押さえつける。
パトリシア・クラウジウス。彼女は生まれながらにして貴族ではなかった。
平民の少女として……母と弟と日々を過ごしていた彼女が、貴族の家名たる「クラウジウス」の名を得たのは七歳の時のこと……。母が亡くなって間もなくのことだった。
自分の身に、帝国の門閥貴族、クラウジウス侯爵の血が流れているということ、その跡取りとして、弟ともども引き取られることになること……。
その決定に、あらがう術は、幼い彼女にはなかった。
まして、弟が病に倒れ、それを治す術をクラウジウス家が持っているとなれば、なおのこと、ほかに選択肢などなく……。
かくて、パトリシアはクラウジウス家の娘となった。
その境遇はユリウスと似ていたが、パトリシアを取り巻く環境は、それより遥かに過酷だった。
彼女に求められたこと……それは、蛇の手練手管を身に着けて、婚儀を結んだ相手を、絶望に追い込むことだった。
初代皇帝が求めた理想的な皇帝像。この世を憎み、滅ぼさんと、大陸全土に呪いを振りまく存在……。帝室が、その姿を忘れた時、思い出させるのが、クラウジウス家に与えられた使命。絶対の存在理由だった。
皇妃として皇帝を絶望させ、この世界を呪わせる。そのために生涯を用いることが、パトリシアに求められたことだった。
だから、貴族令嬢としてのマナーとともに、蛇の考え方を徹底的に教え込まれた。
それは……人としての、まともな生き方ではない。
拒絶して当然のもの。逃げ出して当然のものだった。
けれど、パトリシアは逃げなかった。
この世に残されたただ一人の肉親である弟の……、母から「守ってあげて」と……、そうお願いされた弟の……命を助けるには、それしかなかったから。
平然と人を騙す術を学び、人を、生き物を殺す術を学び……表情一つ変えず、それをこなすことを求められたパトリシアは、その内、笑わなくなった。
怒らず、泣かず……ただ蛇の教えに忠実に生きるようになった。
すべては弟、ハンネスを助けるため。
蛇だけが知るという秘法をもって、ハンネスの、不治の病を癒すため。
その心が気付かぬように……自分が辛い思いをしていると気付かぬように、懸命に心を凍り付かせて……。
――大丈夫、このぐらいで揺れない。ハンネスのため、だから……。
そっと服の襟元を掴みつつ、家の奥へ。
通されたのは食卓だった。
「さぁ、お腹が空いたでしょう? こんなものしかないけど、たっぷり食べてね」
そうして、出てきた料理に……、パティは目を見開いた。
それは、帝国で古くから親しまれている伝統的な料理で……。
大好きなお母さんが、いつも作ってくれた、懐かしい……幸せな料理で……。
だから、
「かあさん……」
パティは失敗する。そのつぶやきを、呑み込むことに……。
――ああ、お母さんの料理、久しぶりだな。
アンヌは、ニッコリ笑みを浮かべながら、そのお料理を見た。
それは、すりつぶした芋を潰して丸めた芋団子を、削り干し肉のスープに浮かべた、モローセと呼ばれる料理だ。じっくり煮込んだ干し肉の旨味と、さっくりほろほろの芋団子が素敵な帝国の伝統料理。
アンヌの母親の得意料理でもある。
――これ、しっかりスープを吸った干し肉がとっても美味しいんだよね……。
この料理なら、子どもたちも気に入ってくれるのではないか、と思い、ヤナたちのほうに目を向ける……っと、キリルが嬉しそうに、芋団子を頬張っているのが見えた。その隣でヤナが、少し緊張しながら、スプーンを持っている。
そんな幼い子どもたちを、アンヌの弟妹たちがかいがいしく面倒を見てあげている。
ヤンチャだったジョンが、お兄さんぶって、キリルに「こうすると美味しくなるんだよ」なんて教えてあげていたり、しっかり者のエミリアがヤナに話しかけてあげたりしている。
――みんな子どもだったのに、大きくなったんだなぁ……。
なんて思いつつ、隣に目を移したアンヌは……思わずギョッとしてしまう。
ヤナとキリルも、それに気付いて動きを止めていた。
パティが……、いつでも決して表情を動かさなかったパティが……泣いていたから。
大きく見開いた瞳から、ポロポロ、ポロポロと、大粒の涙が止めどなく、幼い頬を伝い落ちる。
「え? あ、え? パティさま……? どうしたんですか? ま、まずかったとか、嫌いなものでも……」
っと、大慌てで、ハンカチで頬を拭うも、パティは小さく首を振って……。
「……会いたい。かあさんに……。会いたい……」
途切れ途切れの声で紡がれる願い。されど、それを叶えることはアンヌにはできなくって……。でも!
「失礼します……」
小さな声で、そう断ってから、アンヌはパティを抱きしめた。
きっと、ミーアがここにいたならば、こうするに違いないと信じて……。
ミーアの腕ならば、このように動くと確信して……。
パティは抵抗することなく、されるがままになっていたが……すぐに、アンヌの服をギュッと握りしめる。その口から、押し殺したような泣き声がこぼれ落ちた。
ふと見ると、母が、静かに頷いていた。
それで、正解とばかりに背中を押してくれる母に、口の動きだけでお礼を言って、アンヌは静かに、パティの背中をさするのだった。