第三話 どっちが正しいのかな?
パカラ、ポコラ。
ティアムーン帝国へと続く、穏やかな道。
パカラ、ポコラ。
ゆっくりと響く、平和な足音。
パカラ、ポコラ。
ほのかな風、柔らかな日差しを受けて、馬上のミーアは瞳を細めた。
「うふふ、最高の乗馬日和ですわね」
そうつぶやくミーアの目の前にはパティが乗っていた。その隣には同じく二人乗りの馬が並んで歩いていた。乗っているのはヤナとキリル。徒歩で手綱を引くのはアベルだった。
それは、ちょっとした乗馬体験会だった。
帝国とヴェールガとを繋ぐ道は比較的、安全な道として知られている。それこそ、子どもが馬に乗って行き来できるぐらいには、穏やかな道だ。
ということで、せっかくだから、子どもたちに乗馬体験をさせてあげようということになったのだ。
それは、実に、なんとも平和な光景だった。
見上げる空は青々と晴れ渡り、雲一つない。
輝く太陽の日差しは、どこか柔らかで優しくて……。でも、だからこそ、今年の小麦の収穫を不安にさせた。
「やはり、今年も不作なのでしょうね……」
不意に、ミーアが顔を曇らせる。
少なくとも、ラーニャから聞いた話では、今年も去年とそう変わらない収穫になりそうだとのことだった。
「備蓄の取り崩しはすでに始まっておりますし……、フォークロード商会の海外買い付けと並行すれば、国内はなんとか乗り切れそうですけれど……。備蓄を使い切ってしまった他国からの援助要請が届けば、到底、足りないでしょうね……これは、セロくんたちの成果に期待するしかありませんわね……」
などと、考え事をしている時だった。ふと、ミーアは気付いた。
パティが、ヤナとキリルのほうにジッと視線を送っていることに……。
「どうかなさいましたの? パティ」
話しかけると、パティはハッとした顔をして、それから、ゆるゆると首を振った。
「いいえ。なんでも、ありません。それより、ミーアお姉さま、これは、なんの意味があるのでしょうか?」
「これとは、馬に乗ることですの?」
「はい……」
コクリ、と頷きつつ、パティがジッと見つめてくる。
「意味……。ふぅむ、そうですわね」
ミーア、しばし黙考し、それらしい答えを考える。
――楽しく運動するため、というのはダメでしょうし……ここは変にひねらずに教えてあげるのがいいかもしれませんわね。
ミーアの目的は、パティを蛇の教育から解放すること。そのために、今は自分のことを蛇の教育係だと思っておいてもらったほうが都合が良い。
蛇から脱却させるためにまっとうな教育を施したいが、話を聞いてもらうためには蛇として振る舞っておいたほうが良い。
そこには、矛盾があり、いつかそれは解消されるべきものではあるのだが、今回はそこまでも悩まなくても大丈夫そうだった。
なぜなら、蛇にとって大切なことと、ミーアにとっての大切なことに、重なる部分があったからだ。
ミーアは静かに笑みを浮かべつつ、
「……疾く逃げるためですわ。蛇には逃げ足も大事でしょう?」
逃げることの大切さ、それは、蛇とミーアに共通することだった。
逃げるのは、大事なことだ。いついかなる時でも逃げる手段を用意し、必要とあらば躊躇うことなく逃げる。そうしてしまって構わない、と強調しておきたいミーアである。
なにしろ、パティになにかあったら、ミーアの存在に関わるのだ。できれば、危うきに近づかないでもらいたいし、必要があれば、迷わず逃げてもらいたいミーアである。
「でも……」
っと、パティがなにか言おうとした時だった。
「その子、はじめて乗ったにしては、様になっているな」
その声に、視線を向けると、ちょうど、アベルが馬を寄せてきたところだった。
「そうですわね。うふふ、こうしていると、はじめて、あなたと一緒に乗った時のことを思い出しますわ」
それから、ミーアは、彼の引く馬に乗るヤナとキリルの姉弟に目をやった。
二人は、楽しそうに笑みを浮かべている。
――アベルが気遣ってあげているから、すごく楽しめてるみたいですわね。やっぱり、アベルは優しい方ですわ。ああ、なんだか、こうしていると将来、アベルと夫婦となった時のことを、ついつい思い浮かべてしまいますわね。うふふ、うふふふ。
自分が子どもを一人乗せ、アベルが二人の子どもを乗せた馬を引く。そうして、アベルと、子どもたちとみんなで笑いあう……。そんな幸せな未来を想像してしまう。
今日も絶好調な恋愛妄想脳姫ミーアなのである。
「ん? どうかしたかね?」
不思議そうな顔で見つめてくるアベル。その優しげな目に、思わずポーッとしてしまいそうになって、
「お、おほほ、いいえ、何でもありませんわ」
誤魔化しの笑みを浮かべつつ、ミーアは視線を逸らした。
「そっ、それにしても、素晴らしい乗り心地ですわ。さすがは大陸最高峰の月兎馬、蛍雷ですわね」
目の前の馬の首筋を撫でる。素晴らしい毛艶にため息をこぼしながら、
「お礼を言いますわ。慧馬さん」
そうして、ミーアは前方に視線を移す。っと、そこには東風に乗った慧馬の姿があった。
ミーアの言葉に、耳をぴくりんっ! と動かした慧馬は、すすすーっと馬を後退させ、ミーアの横に並ぶと……。
「ふっふっふ、そうであろう? 我が愛馬、蛍雷はなかなかのものだろう?」
ドヤァ顔で、胸を張る慧馬。
そうなのだ、ミーアは今、火族の誇る名馬、蛍雷に乗っているのだ。
軽やかな足取り。乗り手の気分を盛り上げるような、心地よいリズム。
何頭もの馬に乗り、馬を知り尽くしているウマイスター、ミーアはうむうむ、と頷く。
「素晴らしいですわ。慧馬さんが自慢するだけのことはありますわね」
良き馬には、決して称賛を惜しまないミーアである。
なにせ、馬は最後の最後に頼るべきもの。とっておきの切り札である。
どれだけ気を付けていても、人は失敗し、容易に断頭台に送られるもの。ミーアは常に、自らの行いに対する疑念を忘れない。どれだけ注意していても、失敗する時は失敗するものなのだ。
であれば、ミーアとしては、常に馬という命綱を維持しておきたいのだ。そんな命綱である馬に対して、ミーアはいつだって敬意を忘れない。
「感謝いたしますわ、慧馬さん。こうして、愛馬に乗ることを許していただいて」
「なに、ミーア姫は我が友だ。友には、自慢の愛馬に乗ってもらいたいと思うもの……。お礼を言われる筋合いでは……む?」
と、その時だ。慧馬が顔を上げた。
すがめた目が見つめるのは前方。道を走ってくる一匹の狼の姿だった。
「どうした、羽透?」
やってきた戦狼、羽透は、慧馬のほうを見上げてくぅん、っと鼻を鳴らす。
「……なにか、来たようだね」
アベルの言葉に、ミーアも視線を前方へと向ける。っと、こちらに向かってくる一団があった。
二十騎前後の騎馬でやってくる一団、先頭の騎士が持つ旗の文様……それは、
「あれは……帝国の旗ですわね。」
首を傾げるミーアの目の前で、前方の集団は道を開ける。騎士たちは馬を降り、膝をつき、臣下の礼をとった。
その間を、にこやかに手を振りつつ、悠々と進んでいくミーア。
そうなのだ、ミーアはこう見えても、帝国の皇女なのだ。こう見えても……。
この騎士たちが忠誠を誓うべき人物こそ、ミーアなのだ。
ゆえに、それはミーアにとっては当たり前の光景で……でも。
「え……?」
ミーアの前方に座るパティにとってはそうではない。ヤナやキリルも、まるで自分たちにかしずくような兵士たちに戸惑っている様子だったが、パティの驚きは、その比ではなかっただろう。
なにしろ、彼女は、ミーアのことを本物の帝国皇女だとは思っていないのだから。
――ああ、これは、失敗だったかもしれませんわね。さて、なんと説明したものか……。あら?
そんなことを思っている時だった。ふと見覚えのある青年騎士の姿が目に入ってきた。
いかにも金のかかっていそうな金属の鎧、兜を外した頭には白金色の髪が豪奢に輝く。その顔に、ミーアは幼き日の記憶を刺激される。
――懐かしい顔ですわね。いつ以来かしら……? あれは、お母さまのお墓に行って以来ですから……。
騎士は顔をあげ、ミーアのほうに視線を送ってきた。親しげに瞳を細めてミーアの顔を見て、それからいささか情熱的な視線を、ミーアの少し下のほうに向ける。ミーアよりも、下のほうに……。
「むっ……」
小さなつぶやきとともに、足を速めるアベル。騎士の視線から遮るように、ミーアとの間に入り、その騎士を静かに睨みつける。
「ああ、アベル。別に平気ですわ。だって、彼はわたくしの母の……」
「ふむ、あの男……蛍雷に興味があるようだな。ずいぶんと、熱烈な視線を送ってきていたようだが……」
小さなつぶやきとともに、馬を後退させる慧馬。騎士の視線から遮るように、蛍雷との間に入り、その騎士を静かに睨みつける。
「…………?」
そんなアベルと慧馬を見て、それから、なにか聞きたげな顔でミーアを見上げてくるパティであった。




