第一話 しんなり、しゃっきり、ミーア姫
さて、試験期間という荒波を乗り越え、しんなりしていた海月ミーアは、突如、ラフィーナから呼び出しを受けた。
「はて……なにかございましたかしら?」
途端にしゃっきりするミーアである。
最近はすっかりお友だちになり、穏やかなる獅子になりつつあるラフィーナであるが、油断は禁物である。
そう、基本的にミーアは信じない。ラフィーナのことを……ではない。そうではなく……。
「わたくしって、時々、気付かずにやらかしてしまうことがありますし、油断は禁物ですわ」
自分自身の行いを信じないのだ!
その小心者の心は、常に注意深く、わたくしってば、知らず知らずのうちに、またなにかやらかしてしまったかしら? という視点を忘れない。
これこそが、帝国の叡智の真骨頂なのである。
そうして、起き上がったミーアは、アンヌに手伝ってもらい、制服に着替えた後、
急ぎ、生徒会室へと向かう。
先ほどまでのしんなりしていたミーアの姿はそこにはない。水で戻した乾燥キノコのごとく、しゃっきりした顔で、ミーアは生徒会室の扉を開いた。
室内には、先に来ていたラフィーナが待っていた。そして、そのそばには、ヤナとキリルの姉弟の姿もあった。
「ご機嫌よう、ラフィーナさま」
「ああ、ミーアさん。ご機嫌よう」
穏やかな笑みを浮かべるラフィーナ。ミーアは素早く観察。どうやら、ラフィーナが怒ってはいなさそうだぞぅ、っと判断。
少しだけ、肩の力を抜いて、ミーアは子どもたちのほうに目を向けた。
「ヤナ、キリルもご機嫌よう。テストはどうだったかしら?」
「はい。上手くできました」
堂々と胸を張るヤナと、
「え、えと……たぶん……」
ちょっぴり自信なさげなキリル。
対照的な姉弟に、思わず微笑ましい気持ちになりつつ、ミーアはラフィーナに目を向けた。
「それで、ラフィーナさま、本日のご用向きはなんですの?」
「そう、そのことなのだけど……もうすぐ夏休みになるでしょう? 特別初等部の子どもたちをどうしようかと思っているの」
言われて、ミーアも合点する。
「ああ、そうですわね。確かに、考えておりませんでしたわ」
セントノエルに通う一般の学生たちのほとんどは、夏休みに母国へと帰還する。収穫感謝祭で演舞を担うラーニャなどはもちろんのこと、それ以外の生徒たちもほとんどが親元に帰ってしまう。
試験でよほど悪い点を取ったとか、そういうことでない限りセントノエルに残ることはないのだが……(ちなみに、テストの結果が悪くて居残りになった者は過去に、そう何人もいなかったらしいが……そのうちの一人がベルである。セントノエル学園の歴史に名を刻んだベルである)
「まぁ、基本的には一般の生徒たちと同じように、親元、つまりはそれぞれの孤児院に帰って、ここでのことを報告してもらうのがいいかと思っているわ」
子どもたちの口から、特別初等部のことを聞くことができれば、来年以降も子どもたちを送りやすくなるだろう。徐々にその働きが広がっていけば、蛇の温床となりうる場所を潰すことができるようになるわけで……。
「でも、この二人については、そうはいかないでしょう?」
そう言ってから、ラフィーナはヤナとキリルとに目を移した。
「孤児院には、短い間しかいなかったと聞いているから、報告に帰ること自体に意味はないと思うの。そのうえ……」
「そうですわね。ガヌドスにある孤児院というのならば、なおのこと、帰らせるのはよろしくありませんわね」
ヴァイサリアン族に対して、差別的な価値観を持つガヌドス港湾国である。そんなところに帰るよりは、このセントノエル島に残ったほうが良いに違いない。が……。
「ふぅむ……」
ミーア……ここで考える。頭に浮かぶのは、幼き祖母、パトリシアのことである。
――パティは、この二人に対して心を開いてるみたいなんですのよね。
当人は否定しているが、あれは、間違いなくお友だちになっているだろう。そして、見たところ、パトリシアには今まで、友だちらしい友だちがいなかったように感じられる。
――同じく、蛇の教えを受けていたリーナさんも似たような感じでしたし、可能性はありますわ。であれば、この二人は、案外、キーパーソンとなりうるのではないかしら?
パトリシアを蛇から解放するためには、彼女の心を開くことが必要となる。そして、そのためには、この二人にはぜひついてきてもらいたいところである。であれば!
ん、んん、っとミーアは咳払いする。
「どうかしら? ヤナとキリルのお二人は、わたくしと一緒に帝国に行くというのは……」
「え……?」
ヤナがきょとん、と瞳を瞬かせた。けれど、すぐに、ワタワタと手を振って。
「あ、いえ……。別に、あたしたちは、ここにいられれば十分で……お気遣いいただかなくとも……」
「ふむ……」
ヤナの言っていることは、ミーアにも十分にわかることだった。
セントノエル学園は、地上の楽園だ。
ここにいれば、食事に困ることもないし、住む場所に困ることもない。服だってもらえる。
それに、これから夏がやってくるのだから、湖のほとりなどは、とても過ごしやすいだろう。
……が、ミーア的には、ぜひついてきてほしいので、やや強引に説得することにする。
「ヤナ……わたくしは、あなたに、できれば広い世界を見てもらいたいんですの」
「広い……世界?」
「そうですわ。あなたたちは、ガヌドス港湾国にいた。あそこは、あなたたちにとって、さぞ暮らしづらい場所だったでしょう」
額に彫り込まれた刺青、そのせいで、彼女たちは迫害を受けたのだ。
「でも、それはガヌドス港湾国という狭い世界でのこと。この大陸には、あなたたちを虐げる者ばかりじゃない。優しくしてくれる人だっている。そのことも、このセントノエルで学んだのではないかしら?」
ミーアは、そっとヤナを、そして、キリルを見つめる。視線を受けたキリルは、ソワソワした様子で、小さく頷いた。
「この大陸は、世界はとても広いのですわ。海を越えた地にだって国はある。だから、暮らしづらい場所にしがみつく必要はない。嫌ならば、どこへなりとも逃げてしまっても構わない、と、わたくしは思っておりますの」
これは、完全なるミーアの本音だった。
そう、どこへなりとも逃げてしまっても構わないのだ。馬に乗って遠くへ。断頭台が追いかけてこない場所へ、逃げてしまったって構わないのだ!
そして、そのためには、いろいろな土地のこと、国のことを知らなければならない。
どこに美味しい食べ物があるのか、知っておかなければ、逃げるにしても行先が決まらないではないか。
ミーアはグッと拳を握りしめ、確信を込めて言う。
「だから、いろいろな国を知っておくと良いですわ。いざとなったら、逃げだすために。あなたたちは、すでに、ガヌドスを知り、ヴェールガを知った。であれば、次はティアムーン。さらには、ペルージャンやサンクランド、レムノ……。大陸にはたくさんの国があるし、その中にはあなたたちが暮らしやすい国だってきっとあるのですわ」
それから、ミーアは、ポンっとヤナの頭に手を置いて、
「それに、パティも……。あなたたちと離れるのは寂しがると思いますし。ついてきてくれると、わたくしも嬉しいのですけど……」
パティのためにもついてきて! とすこーしばかりの本音を混ぜる。これが相手を説得する時のポイントなのだ。
ヤナは、パチパチと瞳を瞬かせて、それから、わずかばかり迷った様子を見せたが……。
「お姉ちゃん、ぼく、ミーアさまの国に行ってみたい」
キリルの言葉を聞いて、小さく頷いた。
「わかりました。あの……よろしくお願いします」
「うふふ、決まりですわね」
満足げな笑みを浮かべて頷くミーアであった。