第七十一話 常識人ベル、挙手する!
決戦の日は、週の始まりの日だった。
中央正教会において、七日間の始まりの日は安息の聖日と呼ばれている。
この日は、聖日の礼拝の日であり、仕事も学校も休みとなる日。日々の職務から解放され、心を平安にする、まさに安息の日……のはずだったのだが。
礼拝を終え、聖堂から出て来る者の中に一人、心に平安のない者がいた。
ほかならぬ苦労人、キースウッドである。
「大丈夫……やるべきことはやってきた。事前に準備は終えたはず……。なんの問題もない、はず……」
ぶつぶつと……自分に言い聞かせるようにつぶやいて、それからキースウッドは思い出す。
今回、協力してくれたモニカが与えてくれた助言のこと。
「いくら準備しても不安になってしまって……」
などと、弱気なことを言うキースウッドに、モニカは、労わるような、困ったような笑みを浮かべて……。
「キースウッド殿……」
ぽむぽむ、っと優しく肩を叩き……、
「……どうにもならなくても、やり遂げなければならない時って、ありますよね?」
「まぁ、ありますけどねっ!」
具体的には、手練れの狼二頭と戦わなければならない時とかね!
てっきり「世の中、いくら準備してもどうにもならない時があるから、気楽に」みたいなアドバイスが来るかと思いきや、それを踏まえたうえで「どうにもならん時もなんとかしなければならない時がある。諦めろ!」と来た。全然、優しくなかった!
これは助言か? 励まされているのか? などと、首を傾げざるを得なかったキースウッドである。
モニカ・ブエンティア。風鴉で訓練され、レムノ王国で酷い扱いを受け、ラフィーナの下で働く彼女は……、どうやら、想像以上にしたたかに鍛えられてしまったらしかった。
助言をくれた時の、神妙なモニカの顔を思い出し……、
「いや、でも……やっぱりあれは助言ではないよな」
思わず苦笑するキースウッドだった。
さて、午前中に聖日の礼拝を終えたセントノエルの学生たちは、昼食前には自由時間になってしまう。この日は授業もなく、行事もない。
そのまま寮の食堂で昼食をとるもよし。町に繰り出すもよし。各々、週に一度の休日を満喫するために動き出すわけだが……。
特別初等部と生徒会の面々は、生徒会室に集められていた。
集合した後、彼らが向かったのは調理場の裏手だった。そこでは、一足先に来ていたユリウスがクリーム作りに勤しんでいた。
一般的にケーキなどに用いられるクリーム。それは、搾りたての生乳を分離して取り出すものだった。その分離の際に用いられるものが「女王海月の粉」と呼ばれる分離剤だ。
極めて吸水性の高いその粉は、水分を吸いながら、生乳の下のほうに溜まる。一方で、比重の軽いクリームは上のほうに集まってくる。これを、練振分離法という。
生乳の分離自体は、自然に放置していても起きる現象であるが、この女王海月の粉の発見により、飛躍的にその分離技術は進んだという。
けれど、技術が進んだと言っても、労働自体はゼロにはならないわけで……。
水分を吸う、その魔法の粉が綺麗に混ざらなければ、当然、分離は不完全になる。水分が多く残れば、クリームの泡立ちが悪くなり、味もまた落ちる。さらに、水分を吸った瞬間から、女王海月の粉は粘度を持つため、かき混ぜるのも一苦労だ。
そのため、巨大な桶をかき混ぜるユリウスの額には、汗が光っていた。
けれど、ユリウスは手を止めることはなかった。懸命に、両腕で持った大きなヘラを動かし続ける。
それは、彼に与えられた償いの機会だった。子どもたちの今日の思い出を、楽しいものとするために。
「やぁ。みなさん。もう少し時間がかかりそうですが、パンが焼きあがる頃には、クリームをお届けできると思います」
ふぅっと一息吐いて、ユリウスが笑みを浮かべる。
「ユリウス先生、ぼくも手伝います」
キリルがそんなことを言うが、ユリウスはゆっくりと首を振り、
「君たちには、別に仕事があります。ここは私に任せてください」
きっぱりと言うのだった。
そうして、頑張るユリウス先生の姿を子どもたちに見せた後、一行は、調理場へと戻ってきた。
そこで、改めて、今日のお料理会についての話をするのだ。
「今回、みなさんに作っていただこうと思っているのは、クリームと紅月イチゴのサンドイッチです」
厳かな口調で、キースウッドは言った。
それこそが、彼とモニカが立てた作戦。すなわち『誘導』である。
比較的、危険が低そうなメニューにミーアたちを誘導するのだ。
クリームと紅月イチゴのサンドイッチならば、大きな問題は起こらない……はずだ。まさか、そこに悲惨なアレンジを加えようなどとは思わない……はずなのだ。
――あのフルーツサンドイッチの記事を、ミーア姫殿下にも読んでいただいている。クロエ嬢も、すでに頭は、フルーツサンドイッチ一色になっているはずだ。
最も危険な二人を誘導すべく、情報戦は始まっていた。
相手が喜んで罠に踏み込むようにすることこそ、上策というもの。意図的に、魅力的な情報を流すことで、二人の意識を誘導してやるのだ。
「そう……。ええ、確かに、とっても美味しそうだけど……」
っと、話を聞いていたラフィーナの顔が不意に曇った。
「でも……馬型のサンドイッチというのは……」
「ラフィーナさま……」
そんなラフィーナに、すかさず、モニカが歩み寄り……。
「キースウッド殿に作り方を教えていただきました。それに、そちらは後ほど、ミーアさまと相談しながら作ればよろしいかと……」
などと、抜かりはない。
「ミーアさんと相談しながら……二人で……うん。そうね、子どもたちと一緒だと、わからない部分もあるかもしれないわ」
お友だちと二人でのお料理会を想像し、ニッコリのラフィーナである。
一方のキースウッドは、後日の憂いに、若干お腹をさすりつつも、今は、目の前のことを片づけようと気持ちを切り替える。
「そういうわけで、今日は準備を整えておきました。作業は分担して進めます。シオン殿下、アベル殿下、ティオーナさまとリオラ嬢、特別初等部の……」
っと、手早くグループ分けしていく。
シオン班は、フルーツの準備。紅月イチゴのヘタを取ったり、切ったり、そうした簡単な作業だ。切ることについては、こだわりがあるらしいティオーナや、刃物の扱いに慣れているシオン。リオラも、まぁ、森で生きてきたわけだから、大丈夫だろう、と判断する。
アベルに関しては、変なことはしないだろうという信頼はあるものの、ミーアと同じ班の場合、ミーアが暴走しそうだった。ゆえに、こちらのグループに入れてある。
子どもに刃物は危険かもしれないが、ヘタを取るだけならば、手でできる。問題ないだろう。考え抜かれた布陣である。
「次に、出来上がってきたクリームを泡立てて、砂糖を混ぜ合わせる作業を、ミーアベル姫殿下、イエロームーン公爵令嬢、それに、特別初等部のカロンくん。あとは、指導員としてリンシャ嬢」
上手く、問題が起こらないようにメンバーを割り振っていく。
シュトリナは、調合に慣れているということだったので、クリーム作りには、最適だろう。恐らく……。きっと。それに、ベルもお友だちの言うことならば、素直に聞くだろう。
あとは、特別初等部の中でも、ちょっぴりやんちゃそうなカロンはこのグループへ。リンシャは、わんぱくな男の子の相手も慣れているということで全面的に信頼しておく。
「そして、最後に、パンを焼くのがラフィーナさま、ミーア姫殿下、ラーニャ姫殿下、クロエ嬢。サポートとしてアンヌ嬢。指導係は、ラーニャ姫殿下の従者の……」
そうして、戦力を割り振っていく。大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせながら。
「俺とモニカ嬢は全体を見回して、問題がないかどうかチェックします。なにかあったら、すぐに知らせて……ん?」
っと、その時だった。
勢いよく手を挙げる者がいたのだ。それは、ほかならぬ要注意人物、ミーア・ルーナ・ティアムーンだった。
「なんでしょうか? ミーアさま」
「少しパンを焼く者の人数が多いのではないかしら? わたくし慣れておりますし、なんでしたら、キースウッドさんを手伝って全体の監督をしても……」
「いえ。大丈夫ですから。ミーアさまには、ぜひ、普通の形のパンを焼く、そのお手伝いをいただければと思っています。分業が大事ですから、分業が……」
パン焼きは、すでに経験済のミーアである。アンヌやラーニャ姫もいるし、なんとしても、そこにミーアを封印しておきたいキースウッドである。
「むぅ……まぁ、そこまで言うのでしたら……」
などと、なんとか説得に応じてくれたミーアに、ふぅっとため息を吐いて……。それから彼は辺りを見回して。もう一人、手を挙げている人物を見つけた。
「ええと、なんでしょうか? ベルさま」
名前を呼ばれて、なぜか嬉しそうに頬を赤らめたベルは、はいっ、と気持ちの良い声を上げた後……。おずおずと言い出した。
「あの、甘い物ばかりだと、体に悪いんじゃないでしょうか?」
「……はぇ?」
それは極めて意外な方向からの、強烈な正論だった。
今週まで遊び回です。キースウッドに頑張ってもらいます。
活動報告更新します。