第六十七話 風邪ひきミーアは夢うつつ 後編
「では、ティオーナ嬢、道中気をつけて」
夏休み前の最後の日。
シオンは爽やかな笑みでティオーナを見送った。馬車の中から顔を出したティオーナもまた、親しげな笑みを返している。
シオンの周りには他にも、彼に挨拶をしようという人間が集まっていた。
それをチラチラ気にしつつも、ミーアは自分の周りの取り巻きたちからの挨拶を受けていた。
「ミーアさま、私の父がぜひ、ミーアさまにお会いしたいと……」
「僕もぜひ。夏休みの間に一度ミーアさまと、それに皇帝陛下に拝謁願えれば……」
「いやいや、我が国にこそぜひ。小さいですが避暑地としては最適で……」
それに適当に答えつつ、ミーアはシオンの方を見た。
不意に、その涼しげな瞳と目が合う。
ほんの一瞬、そこに不快げな光が宿って、すぐに興味を失ったかのようにシオンはミーアから視線を外した。
けれど、ミーアには彼の表情の意味がわからなかった。
――なぜ、シオン王子は、わたくしに挨拶にいらっしゃらないのかしら……。あっ、きっと、お弁当を断って、それで気まずいのですわね。そんなの気にしなくってもいいのに。
ミーアは革命が起きるまで、シオンやティオーナが抱いている気持ちに気づかなかった。それだけでなく、周囲の取り巻きたちの心さえ把握できていなかった。
誰の気持ちも考えることなく、その時を迎えてしまった。
だから……、財政がひっ迫し、各地で紛争が起き、帝国が傾きつつあった年。
ミーアが学校に行けた最後の年の休み前……、
「どうして、こんなことに?」
ミーアに挨拶をしに来る者は一人もいなくなっていた。ミーア以外の帝国貴族は子どもを学園に送る余裕はなく、他国の者は斜陽の帝国の姫という厄介者と関わることを避けたのだ。
ミーアはひとりぼっちになっていた。
そんな中、変わらず周りに人々を集めていたシオンは、ミーアを冷たい目で見つめて、尖った声で言った。
「俺はあなたを軽蔑してるよ、ミーア姫」
「ひやぁあっ!」
ミーアは飛び起きた。
体中が汗でびっしょり濡れている。
「あ……ああ、夢、ですの?」
その時、すっと隣からコップが差し出された。冷たい水が入ったそれをミーアは一気に飲み干して……、
「ありがとう、美味しかったですわ」
「どういたしまして。しかし、うなされていたようだったが、悪い夢でも見たのかね?」
ひたり、と冷たい手が頬に触れる。その心地よさに思わずうっとりしかけたミーアだったが……。
――あ、あら、今の声は……?
恐る恐る隣を見たミーアは、
「ふひゃあっ!」
ヘンテコな悲鳴を上げながら、ベッドの上で飛び上がった。
ミーアの顔をのぞきこんでいた人物、それは、
「あっ、あっ、アベル……王子? どうして、ここに?」
柔らかで、優し気な視線を向けるアベル王子だった。
「ああ、すまない。レディーの寝顔を見るのはどうかと思ったんだが、アンヌ嬢から頼まれてね、しばらくの間、君を見ていてほしいと」
アンヌが親指をグッとあげる姿が目に浮かぶようだった。
――気の使い方が全力で間違ってますわっ! アンヌっ!
毛布を口元までぐぐいっと持ち上げつつ、
「お見舞いには感謝いたしますわ。ですが、風邪がうつりますから、もう帰られた方がよろしいのではないかしら?」
「ああ、それは好都合かもしれないな」
「へ? どういう意味ですの?」
「いや、なに、ボクの国の言い伝えに、風邪は他人にうつすと治るというのがあってね。ボクが風邪になり、ミーア姫が治るのであれば、本望だと思ってね」
そう言って、アベルはおどけたように笑った。
「まぁ……」
その幼くも朗らかな笑みにつられてミーアも笑みを浮かべる。その後も、ミーアはアベルとのおしゃべりを楽しんだ。
「そういえば、もうすぐ夏休みですわね」
「ミーア姫はやっぱり帝国に帰るのかい?」
「そうですわね。国で、いろいろとすることがございますから。休みの間はずっと帝国にいるつもりですわ」
長期の休みだからと言ってのんびりしてはいられない。ギロチンの運命から逃れるために、できる限りのことをしなければ。
「アベル王子はどうされるんですの?」
「ボクも帰るつもりだが、少し早めに学校にもどろうと思っているんだ。もしかしたら、君と夏休み中に、どこかにご一緒できるかと思っていたのだが、少し残念だな」
――なんで、この人、ドキッとするようなこと、真顔で言うのかしら……。
ミーアはアベルから視線をそらして、気持ちを落ち着けるように、ふぅと小さく息を吐く。
と、そこで、ノックの音が聞こえてきた。
「ああ、そういえば、シオン王子とティオーナ嬢も後でお見舞いに来ると言っていたな」
「まぁ、なんだか、忙しいですわね」
まったく、風邪で伏せっているというのに、迷惑なやつらだ……。
そんな風に思いつつも、ミーアは小さく首を傾げる。
二人の来訪を、それほど不快に感じていない自分に。
たくさん寝たからだろうか?
熱を持って、ボーっと重たかった頭は、いつの間にかスッキリ軽くなりはじめていた。
「失礼する。ミーア姫、風邪はどのような具合だ?」
「ミーア様、これ実家から送られてきた熱冷ましです。弟が育てた香草から作ったもので、粗末なもので申し訳ないんですけれど……」
ミーアの部屋に、どこか温かでにぎやかな空気が満ちた。
それは、前の時間軸では決して訪れなかった、穏やかな時間だった。




