第六十六話 追走劇
月の明るい夜だった。
満天の星空をのんびり眺めながら、火燻狼は馬に揺られていた。
「さぁて、バルバラの息子は上手いことやってのけたかね……?」
遥か後方、今はもう見えなくなったノエリージュ湖を思い出しながら、つぶやく。
「まぁ、上手くいっていようがいなかろうが、俺には関係ないが……」
基本的に、燻狼は、事が起こる時に現場にはいないようにしている。彼が去った後に事件が起きるのであり、その頃には仕掛け人たる彼は、すでに別の場所にいるのが理想。
サンクランドでも、巫女姫の居城でも、それは変わることがない。
成功・失敗を見届けず、その結果にもこだわらないことで決して当事者にならない。それこそが彼のスタンスなのだ。
「しかし、せっかく逃がしてやったのに、まさかセントノエルに行くとは。あの女も焼きが回ったもんだ」
もともと、バルバラは騎馬王国に由来する蛇ではない。帝国に古くから根差す蛇を源流としている。さらに地理的に、より西側、ガヌドス近辺の蛇とも薄っすらと繋がりがあったため、重宝してきたのだが。
「まぁ、いいがね。別に、繋がりがあろうがなかろうが……」
蛇は、基本的に個人主義者だ。短い期間協力することはあっても、そこに情が生まれることはなく。
「各々が秩序の破壊を志し、歴史の流れを変えていく。それが蛇の本道なり、か。さぁて、次はどこへ向かおうかね……ん?」
と、そこで、燻狼は口を閉ざした。
耳元に手をやり、風の音を聞く。
穏やかな夜風に乗って、なにかが近づいてくる音が聞こえて……それは馬のかける音で……。
直後、燻狼は舌打ちする。
鋭く馬を駆り、街道を走り出す。が、ほどなくして……その足を緩める。
――これは逃げきれそうもないかね……。
諦め混じりにため息を吐き、それからゆっくりと振り返る。
「おお、これはこれは、狼使い。我らが族長殿」
その視線の先、漆黒の馬に乗る、スラリと背の高い男の姿があった。馬の両脇には二匹の狼が控える。
――臭いを辿られたら逃げようがないかね……。やれやれ。
「ひさしいな、燻狼。今までどこでなにをしていた?」
「不肖、この燻狼、この世をよりよくするために、善行に身をやつしておりました。北で孤児院に寄付を寄せ、南で町のくず拾い」
よよよ、と泣き真似をしてみせて、燻狼はバカにするように舌を出す。
「教えるはずがなかろうよ。たとえ親、兄弟、あるいは、お前の大切な巫女姫であろうと、我が手の内を晒すことはない。それが蛇というものさ」
「聞くだけ愚か、というものか」
「なぁに、気に病むことはない。お前が剣の腕しかない愚か者であることは、俺もよくよく知っているさ」
「そうか……。ならばここは、我の得意ごとの話をしようか」
そう言って、馬駆はスラリと剣を抜いた。
「おいおい、狼使い。族長殿よ、まさか、この俺を殺すつもりかね?」
「安心しろ。殺しはしない。それは禁じられているからな。我はただ、己が役割を果たすのみ」
「やめてくれませんかねぇ、実戦は苦手なんだ」
言いつつ、燻狼も剣を抜いた。わずかに曲線を描く刀身が、月明りを受けてギラリと輝く。
視界の中、二匹の狼が左右から包囲するように近づいてくる。
「俺ごときに三対一とは……。族長殿も容赦がない」
右に、左に、と視線をやって、燻狼は、剣を両手持ちにした。
「むっ?」
馬駆が警戒に足を止めた、瞬間、燻狼は動いた。
「ほいっと」
剣の柄の部分をひねる。パキッと何かが割れる音がして、ジワリ、と持ち手の部分から液体が染み出してきた。
それは、彼が握りこんでいた粉状の薬と混じり合い……。パァッと強烈な光が生まれた!
狼の弱々しい悲鳴と、馬駆の微かな呻き声。
それを背中に聞きながら、燻狼は馬首を翻す。
「さぁて、どれぐらい足止めできるものやら……」
投げやりにつぶやきつつ、馬を駆る。
さすがは、騎馬王国出身なだけはあり、その手綱さばきは見事なもの。足を止めた馬駆たちを置いて、ぐんぐんと荒野を駆けていく。
されど……彼にとって不運だったのは、今宵が月夜であったこと。そして……。
「逃がさぬ……」
追手が火の一族一の、馬の乗り手であったことだった。
振り返れば、後方より、じり、じりと馬駆の馬が近づいてきた。
――やれやれ、さすがに速いな。しかも、あの狼たちには俺の臭いが知られているし。こいつはいよいよ逃げ切れないかね。
っと、その時だ。燻狼の耳が、ある音を捉えた。
それは、ごうごうと音を立てる、川の音だ。
「ああ、ようやくか……」
見えたのは、太い川だった。
キラキラと月明りを反射する水面、水しぶきを上げ、轟きを響かせる荒れた川だ。流れが速く、馬に乗ったままではとても渡れそうもない。
川は、燻狼から見て右の、やや下ったところを流れていた。
そして、その川に、まるで枯れ葉のように漂う一艘の船が見えた。船は真っ直ぐに川を下っている。並行するように、川を見下ろしながら、燻狼は馬の首筋を撫でた。
「さぁて、お前とはここでお別れだ。せいぜい、幸せに暮らせよ」
そう言うと燻狼は、手綱と鐙……馬と人とを結びつける馬具を一太刀で切り捨てた。
そうして、彼自身は、馬の背を蹴って川のほうに跳躍する。
刹那の浮遊感、美しい月夜をぼんやりと眺めつつ、落ちていき、落ちていき……次の瞬間、お尻を硬い木に、したたかに打ち付ける。
「あたたた……」
「おいおい、大丈夫かい? あんたが『巫女姫』のところの蛇導師の生き残りか?」
見上げると、長髪の男が、こちらを見ていた。額に青いバンダナを巻いた、鋭い目をした男だった。
「そう言うそちらさんは、バルバラをセントノエルに送り届けた、西の蛇かね?」
「ふん、どうやら、間違いはないようだ……っと?」
不意に、男が目を上げる。と、
つられて燻狼も視線を上へ。すると、月明りを背に受け、漆黒をまとった男が降ってきた。
「逃がさぬ、と言ったはずだ」
見事に、船に着地を決めた男、火馬駆はすかさず剣を抜き……。
「おいおい、他人の船で勝手が過ぎるんじゃない?」
突然の声、直後、がいぃん、っと重たい金属の音を立て、火花が散った。
一足飛びで馬駆にとびかかったのは、バンダナの男だった。鋭い横薙ぎを、剣を立てて受け止めた馬駆だったが、足場の舟がぐらつき、バランスを崩した。
「しゃあっ!」
追い打ちをかけるように、バンダナの男が蹴りを放った。鋭く突き出す蹴りは、馬駆の胴体の中心を射抜き……、その体を舟から叩き落した。
その一部始終を、燻狼は、落とされぬよう必死に舟に掴まりながら見ていた。
「やーれやれ。あれが、巫女姫の最強戦力か」
軽く腕を振りつつ、バンダナの男は軽い笑みを浮かべる。
「ま、こうして船の上なら恐れるに足りんと言ったところかな」
「それは、どうでしょうかねぇ……っと!」
びゅうっと飛ばされてきた青い布に手を伸ばし、燻狼は苦笑した。
それは、馬駆の斬撃によって斬り落とされた、男のバンダナだった。
「なるほど、なかなかやるなぁ」
男は、川の中に消えた馬駆を睨みながら、獰猛な笑みを浮かべた。
――族長も化け物だが、この男も負けずに化け物じみてるねぇ。
やれやれ、とため息を吐きながら、燻狼は言った。
「ところで、これからどこに向かうので?」
「さぁてね。たまには、故郷に顔を出そうかと思っていたところだよ」
そう言って、男は笑った。月明りに照らされたその顔、前髪の間から覗く額には、目の形の刺青がくっきりと彫り込まれていた。