第六十四話 帝国の叡智の裁き(表)
「馬鹿な、私の息子は死んだ。それを私が調べないはずがない。あれが、夢であったなどとは、決して思えない。夢……、あり得ない」
前髪をグシャリと握りしめ、バルバラはぶつぶつつぶやいていた。
そんな彼女の姿を、シュトリナは、微かな困惑を持って見つめていた。
バルバラの事情は、彼女も聞いていた。
過去の貴族の横暴がバルバラを傷つけ、暴走させたのだ、と。
けれど、こうして実際に目にするまでは信じられなかったのだ。
シュトリナにとって、バルバラはいつでも恐怖の対象であったのだ。得体の知れぬ蛇という存在、その体現者こそがバルバラであり、一時は逆らうことなど考えもしなかった、絶対的な悪だった。
その彼女の、暗い心が――息子を奪われるという、あまりにもわかりやすくて、とても人間的な感情から来ている……シュトリナでさえ想像できてしまう悲しみによって形作られている。そのことが、シュトリナには信じられなくって……。
今にも、バルバラが余裕の笑みを浮かべて、恐ろしいことをするのではないかって……そう思って。なのに……。
「茶番……ああ、なんたる茶番。なるほど、これは、私を陥れるための罠……なのですね? そうでしょう?」
ラフィーナのほうを見て、バルバラは言った。奇妙なことに、その声には、すがるような、助けを求めるような、そんな響きがあった。手酷い裏切りに遭ったかのような、そんな響きがあった。
弱々しいその姿に、シュトリナはひたすらに困惑する。
「母上……」
その時だった。ユリウスが、そっと手を伸ばし、バルバラの手を取った。びくんっと震えるバルバラだったが、手を振り払うことはしなかった。
「遅くなってしまい、申し訳ありません。あの日の約束のとおりに、ともいきません。私は、子爵家の当主にはなれませんでしたから」
ユリウスは、それでも、バルバラの顔を見つめて言う。
「それでも……私は……僕は……あなたと……母さまと、再びお会いできて、とても嬉しい」
そう言うユリウスの目には、薄っすらと涙が浮く。その、歓喜に染まる顔を、もはや、バルバラは否定することができなかった。
「ああ……これは、なんて……」
口からこぼれ落ちた声……それが微かに震える。
「では、私は、なんのために……」
その先に続く言葉を想像して……シュトリナは背筋に寒気を感じる。
シュトリナの目に映るのは、一人の弱い人間の姿。それは、自分が辿ったかもしれない人生の末路だ。
子を奪われ、蛇という力にすがった。すがらざるを得なかった彼女は、最後に、その蛇からも見捨てられたのだ。
シュトリナの目には、バルバラの体から蛇が離れていく様子が、確かに見えていた。人の人生を弄び、その後はあっさり離れていく、そんな姿。
後に残されたのは傷つき途方に暮れる年老いた女のみ。
それは、蛇にすべてを尽くした先にあるのは、空しい人生の結実だ。
バルバラは罪を犯した。
ユリウスの言ったとおりだ。
彼女は、自分では決して担いきれない罪を犯した。その罪は、必ず裁かれなければならない。それは変わらない。
不幸な境遇を加味して処刑は免れたとしても、彼女はこの先、生涯、解放されることはない。囚人として苦役に服さなければならない。囚われの罪人として、その生涯を終えるのだ。
それは、なんて……悲しいことなのだろう、と……。
こんなことならば、蛇の勝利を高らかに賛美している時に、処刑してしまったほうが、彼女のためであったのではないか、と……そんなことさえ思ってしまって……。そこに……。
「あなたは、蛇から解放されましたわ。バルバラさん。あなたは、すでに蛇ではない」
ミーアが厳しい顔で告げたこと……それは。
「ゆえに、あなたは……これからの生き方を変えなければなりませんわ」
少しだけ、意外な言葉だった。
罪を償え、でも、刑に服せ、でもなく……生き方を変えよ、と……。
その言葉はシュトリナの中で、すとんと腑に落ちた。
バルバラから蛇が離れたことを、その目で見たシュトリナには、その言葉がこう聞こえた。
「今までは蛇とともに滅びるものであったけれど、すでにあなたは蛇ではない。であれば、あなたは、今後はあなた自身の人生を生きなければ、ならない」と。
そのうえで……。
「バルバラさん、あなたは、ユリウスさんと暮らしなさい。もちろん、あなたは囚人ですから、ユリウスさんの通いということになるのかもしれませんけれど……」
静かで、穏やかな声で、ミーアは続ける。
その意味するところを、シュトリナは、鋭く洞察する。
罪には罰が与えられなければならないのと同様に……傷にもまた癒しが与えられなければならない。
息子を失い傷ついて罪を犯した人には、裁きとともに癒しが与えられるべきなのだ。
だから、ミーアは言っているのだ。
「ユリウスさんと、ともに暮らしなさい」
と。
そうして、ミーアは何事か考えた様子だったが……。やがては小さく頷き……。
「ふむ……そうですわね。ユリウスさんの手伝いを、あなたの苦役とするのが良いのではないかしら……? 無論、子どもたちに変なことを吹き込まぬよう、監視はつけるべきであると思いますけれど……残された人生は、ユリウスさんの言うことを聞いて、その手伝いをして過ごすこと。それが、あなたのすべきことですわ」
「私を、許そうというのですか? 帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーン」
前髪の下から、バルバラが、鋭い視線を向ける。けれど、ミーアは、チラリとラフィーナのほうに視線をやってから、小さく首を振る。
「許すなどと……。あり得ないことですわ。あなたは許されぬことをした。あなたは囚われ、その生涯を囚人として終える。あなたは、あなたの蒔いた種を刈り取らねばならない」
ミーアの言葉は、どこまでも重い。そこには、一切の妥協はなかった。
「あるいは、あなたに恨みを持つ者が、その裁きに納得がいかなければあなたを見つけて殺すでしょう。仮に平穏な死を迎えられたとしても、天で神があなたを裁くでしょう。あなたの罪は消えない。でも……」
と、そこで、ミーアは言葉を切った。そうして、バルバラに向けるのは優しい笑みで……。
「“その時”までには、わずかなりとも時間があるでしょう。ならば、やがてその命が終わる日までに、できることはあるのではないかしら?」
シュトリナは目を見開いた。
ミーアの言わんとしていることの意味を、今まさに悟ったからだ。
ミーアは、言っているのだ。
残された時間で、お前の人生に「意味」を持たせろ、と。
自らの手ですべてを捨て、破壊し、それでも構わないと生きたバルバラ。その人生にはなんの意味もなく、価値もなく、実りもなく。
その終わりにあるのは刑に服す囚人としての時間のみ。復讐され、嘲笑の中を殺される、あるいは、復讐の刃を恐れ、やがて来る神の裁きを恐れるのみ。
彼女に与えられるのは、そんな空しい終わり方であったはずだ。
けれど、否、とミーアは言う。
それでも、その人生に意味はあったのだ、と……。
蛇は死なない。人が人である限り、やがてはどこかで甦り、再び動き出す。永久に不滅の存在。
されど、後に繋がる流れというのは、なにも蛇だけではないのだ。
人の営みだとて、未来に繋がるれっきとした流れだ。
ユリウスという人を世に生んだ。そして、彼によって育てられた子どもたちは、確かに、この世界に影響を与えていく。
バルバラに残された命の時間がどれほどかは定かではない。でも、それでもミーアは、その流れに加われ、とバルバラに言う。
その人生には確かに意味があったのだと、そう誇らしく死んでいけるように……と。
ミーアは、バルバラを見つめて、もう一度言った。
「あなたは、すでに蛇ではない。ならば、罪人として裁きを受け入れ、ユリウスさんの母として、彼の良き行いを手伝うこと。それが、これからあなたがなすべきことですわ」
その言葉に、バルバラは、静かに瞳を瞬かせた。




