第六十三話 ベル、ぶんぶんする
「こんな場所がセントノエルにあるとは思いませんでしたわ」
ミーアは少し古びたホールの、壁に開いた穴を見て、ううむ、と唸った。
「ところで、入り口のところは、いつもあんな風に入口が開いたままの状態なんですの?」
問いつつ、ラフィーナの顔を見る。と……ラフィーナはついっと視線を逸らし、
「……ええ。いつもは、その……入口に絵が飾ってあるのよ」
「はい。お見事なしょ……絵でしたよ。ラフィーナお……さま」
なにやら、微妙に言葉に詰まりつつ、ベルが言った。
「あら、絵がかかっておりましたのね。この穴を隠すぐらいですから、結構大きい絵ですわね」
「はい……!」
と答えたのは、またしてもベルだった。それから、彼女はシュシュっとラフィーナのほうを確認してから、
「とっても素敵な天使の絵でした」
ドヤァな顔で言った。
――ははぁん、今のは、ラフィーナさまにおべっかを使ったんですのね?
などと察したミーアは、
「まぁ、そうなんですのね。それは、ぜひ見て……」
みたい……と自らもラフィーナのご機嫌取りに走ろうとした。けれど、ラフィーナはニッコリ笑みを浮かべて、
「あまりできの良くない絵なのよ。ねぇ、ベルさん。そうよね?」
有無を言わさぬ口調で、言い切った!
その清らかな笑みに、ミーアは、言い知れぬ迫力を感じてしまう。
――これは……かつて、わたくしに『誰でしたっけ?』などと聞いてきた時の笑みに似ておりますわ。
これは、あまり触れないほうがいい話題だぞぅ、っと直感に促されるままに、ミーアは口を閉ざす……が。
「あ……はい。よく考えると、大した絵じゃありませんでした。ええと、あ、そうだ!」
ぽこんっと手を叩き、ベルが言った。
「とっても恥ずかしい絵でした!」
「うぐぅ……」
なにやら、ベルの一言がどこかに刺さったのか、ラフィーナが胸を押さえて崩れ落ちそうになっていた。
ミーアは、そこに、大人しい獅子の尻尾を、むんずと掴んでブンブン振っている孫娘の姿を幻視する。
――ベル……、この子にしゃべらせておいて、本当に大丈夫かしら? というか、恥ずかしい絵って……いったい、どんな絵だったんですの?
絵の内容が気になるも、ミーアはあえて掘り下げない。
好奇心は姫を殺すのだ。迂闊に触れないほうが良いものというのが、この世界にはあるのだ。地を這うモノの書とか、そういう類のものが……。
まぁ、それはともかく……。
「ふ、普段は、ここに見張りを立てているのだけど、あの日は、監視を付けずにおいたの。ユリウスさんがどんな行動に出るか、読めなかったから」
若干、涙目になりつつも、ラフィーナは話を変えた。
「なるほど。下手に暴れられては学生たちに被害が及ぶかもしれない。それよりは、この中に誘い込んで、そこで捕まえてしまおうと、そういうことだったのですね」
当の本人であるユリウスは、涼しい顔で頷いていた。
「私に、母の居場所を教えたのもそのためですね。最初から怪しいと疑っていて、おびき寄せようとした」
「蛇の言いようではないけれど、偽りに真実を混ぜたほうが相手を騙せるもの。さらに、真実のみを話して、相手を罠にはめられるなら、それに越したことはないわ。私たちだって、頭を使うのよ」
「なるほど。お見それしました」
そう、ユリウスが微笑んだところで、
「おやおや、これは……ずいぶんと大所帯でいらっしゃったのですね?」
暗い声が、部屋に響き渡った。
壁の穴から現れたのは、サンテリと警備兵、それに腕を縛られたバルバラだった。
「お懐かしい顔がありますね……ふふふ。おや、そちらの子どもたちは……?」
バルバラの異様な雰囲気に、初等部の子どもたちが息を呑むのがわかった。パティですら、怯えるように、身じろぎしたのを、ミーアは見逃さなかった。
――ふぅむ、しかし、バルバラさん……閉じこめられてる間に、また、闇の気配が濃くなっておりますわね。なんだか、くろーい靄を発散してるように見えますわ。
などと思いつつ、ミーアは子どもたちを守るように前に出る。
「この子たちは見学ですわ」
「はて、見学……? 私めを、晒し物にしようとでも?」
怪訝そうな顔をするバルバラに、ミーアはあくまでも首を振る。
「あくまでも、見ているだけですわ。この子たちにも無関係のことではありませんから。けれど、本命は、そちらの方ですわ」
そうして、ミーアが指し示すほう、立っていたのはユリウスだった。
「ああ……そう、その男にはぜひ聞きたいと思っていたのです」
バルバラは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あなたは、いったいなんなのです? なんのために、こんな場所に来たの? 蛇の動きにしては、まったく中途半端なことを……」
「お久しぶりです……。母上」
バルバラの言葉を遮り、ユリウスが言った。
「……あなた、いったいなにを言っているのです?」
警戒するように、目を眇めるバルバラの目の前で、ユリウスは名乗った。
「私は、没落したオベラート子爵家のユリウス・オベラート。オベラート子爵と、あなたの子どもです」
バルバラは、かくん、っと首を傾げた。
それから、じぃっとユリウスのほうを見つめる。ほかのものなどなにも目に入らない、という様子で。
見つめることしばし、彼女は、静かに首を振った。
「あり得ないこと。あなたたちは、この期に及んで私を嘲笑おうというのですか? ははは、さすがは王侯貴族のみなさま方。実に趣味が悪い。そうでなくては……」
バルバラは頬を引きつらせ、歪んだ笑みを浮かべる。
「それとも、私が、息子の死を確認しないとお思いですか? この私が? そうであるならば、いささか、私を見くびりすぎでございます。確かに、我が子ユリウスは、子爵家で餓死した。当主の放蕩に巻き込まれて、死んだのです」
それから、バルバラは、ミーアに、そして、シュトリナに指を突き付ける。
「帝室は、大貴族は、助けてくれなかった。食うに困った子爵家を放置したのでございます。そして、息子は死んだ。私は、死体だって確認しているのです。それとも、あなた方は、あれが『夢』だったとでも言うおつもりですか?」
その……瞬間だった。
夢、という言葉を口にした時、バルバラの体が小さく硬直した。
「夢……? 馬鹿な、あれは……でも……」
彼女のつぶやきに、ミーアは、そっとパティのほうに目をやった。
いつもと変わらぬ無表情、されど、真っ直ぐに……パティはバルバラのほうを見つめていた。




