第六十二話 大浴場での語らい
さて、生徒会室での会合が終わった時……ミーアは疲労困憊状態にあった。
全校集会から続いて、ユリウスの処遇についての話し合い。
ミーアの体力は地味に削られていたのだ。
なんと、夕食を食べる気力が微妙に湧かないほど、ミーアのやる気は減退していた! 大変なことである!
……ちなみに、別に話し合いをしながら、マカロンを食べ過ぎてお腹が苦しい、などということではない。それは、まったくの誤解である。
「ふむ……お夕食の前に、腹ごなしにお風呂に行こうかしら……?」
「はい。それがいいのではないでしょうか。お風呂でリラックスされるとよろしいかと思います」
仕事が終わり、お風呂にするか、夕食にするか? と聞かれることは、ミーアにとって最高に難しい二者択一ではあるのだが、この日は、比較的スムーズに決まる。
こうしてアンヌを伴い、ミーアは大浴場へと向かった。
脱衣所の扉を開けると、そこには、見知った二人の姿があった。
「あら、ヤナさん。パティ、二人もこれからお風呂なんですのね」
話しかけると、ヤナはぴくんっと肩を揺らす。それから小さな声で、
「……はい」
と返事をして、服を脱ぎ始めた。
その様子に、ミーアは小さく首を傾げた。
――妙ですわね。なんだか、思いつめたような顔をしておりますけれど……。それに、なんだか、わたくしを待っていたような……?
パティのほうに視線を向けるものの、こちらは、いつもと変わらぬ顔だ。
――パティの表情から心の内を読み取るのは大変ですわね。
だからこそ、珍しく感情らしい感情を見せた、バルバラのことに関わらせるのには意味があるのだが。
――ユリウスさんとバルバラさんの再会で、なにか良い影響があればよいのですけど。
考え事をしつつ、風呂場へ。手早く髪と体を洗い、さっさと浴槽に身を沈める。
「おーふぅ……」
熱い湯が、じんわりと固まった体を柔らかくしてくれる。じゅわわっと伝わる熱分が、体の血行をよくしていき、ぽっぽと頬が熱くなる。
「ああ……やはり、セントノエルのお風呂は最高ですわね。素晴らしいですわ」
頭を浴槽の縁に預け、目にタオルを載せて……「あー」などと、実に、おっさ……いや、まぁ、その……若干、ご令嬢らしからぬ声を出して、お風呂を満喫していると……
「あ……あの……」
「ん?」
タオルを取り、顔を上げると、ヤナがすぐそばまで来ていた。髪を洗い、頭の上でまとめているので、その額にある目の形の刺青が露わになっていた。
――海洋民族ヴァイサリアン……。こうしてみると、この刺青はとても目立ちますわね。これが、海賊の証として使われていたと、みなが知っていたとしたら、さぞや生きづらいことでしょうね。
血行が良くなったミーアは割と回転が良くなった頭で、そんなことを考える。それから、もの言いたげな顔をするヤナに話しかけた。
「どうかしましたの?」
問い返されたヤナは再び肩を震わせて、それから、おずおずと口を開いた。
「実は……その……カロンが、何日か前に、あたしに、盗みをしないかって……言ってきて……」
ぽつりぽつり、と話し始める。
「まぁ、そのようなことがございましたのね」
驚いてみせつつも、ミーアはヤナを見つめる。
体の両脇に垂れた腕、小さな拳はギュッと何かを堪えるかのように、小さく震えていた。
――それで、大浴場で待っていたんですのね。わたくしと話しても、目立たないような場所で……。
ヤナのしていることは、仲間から見ると告げ口だ。余計なことを言いやがって、と非難される行為だった。あまり、好き好んでしたいことではなかったのだろう。
もちろん世の中には、喜んで告げ口する人間というのがいる。そして、前の時間軸でずいぶんと痛い目に遭わされたミーアは、その手の人間があまり好きではない。
けれど、ミーアの見たところヤナは告げ口を喜ぶようなタイプではないように見えた。痛みをこらえるように握りしめられた手がその証拠だ。
にもかかわらず、彼女がこうして話しに来たのは……。
――おそらく、先ほどの全校集会の言葉を受けて……ということですわね。
ミーアは、そう結論付ける。先ほどのミーアの言葉に対して、ヤナは、カロンに対する疑惑を黙っていることが不誠実だと思ったのだろう。
だから、すべてを話すために、ミーアを大浴場で待ち伏せていたのだ。ミーアの部屋に行ったりしたら、カロンに疑いをもたれる。が、男女別の大浴場であれば、こうして話をしても露見しづらいから。
――なるほど、この子……なかなか、機転が利きますわ。ベルと似た空気を感じますわね。
などと感心していると、ヤナは勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありません。あたし、今まで、黙ってて……。せっかく、クラスのリーダーを任せてもらったのに……こんなっ」
「ああ、ヤナさん……。あなたが、そんな風に頭を下げる必要はございませんわ」
そっと、華奢な肩を優しく押して、体を起こしてあげる。それから、ミーアは言った。
「それに、わたくしは思いますわ。彼は、絶対にやっておりませんわ。わたくしは信じておりますわ」
というか、すでに犯人はわかっているのだが……もちろん、余計なことは言わないミーアである。
「でも……」
「先ほどの全校集会で言った、あれがすべて。もしも、彼が盗んでいたとしても、わたくしは許しますわ。もちろん、二度としてはいけないと注意はするでしょうけれど……」
そう微笑みつつ、ミーアは、そこで思いつく。
――あ、そうですわ。せっかくですし……。
なぁんて悪い笑みを浮かべながら、ミーアは言葉を続ける。風呂好きミーアは、風呂に入ると悪知恵が働くようになるのだ。
「ねぇ、ヤナさん、わたくしは思いますの。許すことって……とっても大事じゃないか、と」
ミーアは思う。
人というのは、存外、周りの空気に流されるものなのだ、と。
出来上がった流れにわざわざ反抗しようなどという強い意志を持つ者は、滅多にいない。波乗りを極めた海月、ミーアはよく知っているのだ。
そして、その流れというのは、一人があげた声で容易に作られるものなのだ。
ミーアがヤナに期待するのは、その最初の一人になることで……でも。
「だけど……許せないやつだって、いる……」
固い声が響く。目を向ければ、ヤナがギリッと、悔しげに歯を食いしばっていた。その幼い額では、消せない海賊の証、刺青の目が真っ直ぐにミーアを見つめていた。
きっと、今までいろいろと辛い思いをしてきたんだろうな……などと思いつつも、ミーアは、うんむっと唸ってから……。
「人は、自分が蒔いた種を、必ず自分で刈り取らなければならぬもの……ですわ」
「え……?」
きょとん、と首を傾げるヤナに、ミーアは諭すように続ける。
「報いというのは、大体において与えられるもの。わたくしたちの目の前で悪いことをすれば、わたくしたち上に立つ者、貴族や王族が裁き罰を与える。そして、わたくしたちの目の届かないところで行われた悪には、神が裁きを与える……。それが神聖典の教えですわ……たぶん」
うろ覚えの部分がないではないが、ミーアは大陸の共通認識を確認する。そのうえで、
「だから、あなたが怒りに囚われて、時間を浪費する必要はありませんわ、ヤナ。その腹を立てている時間は、キリルに優しくしてあげるのに使うべきですわ」
許すことは大事だと、復讐を手放すことは大事だと……強調しておく! しっかりと強調しておく!
そのうえで、
「まぁ、それでも、どうしてもムカつく時は、そうですわね。相手が嫌な男の子とかだったら、こう、思いっきり蹴り上げて……」
「ミーアさま……」
見ると、アンヌが浴槽のところに歩いてきていた。咎めるようにミーアを見つめるアンヌ。さらには、アンヌに髪を洗ってもらっていたらしいパティが、そのそばで、ジッとミーアを見つめていた。
「んっ、んん、ともかく、ですわね。許すことは大事ですわね。どうか、わたくしたちを、信じてくださいませ」
「ミーアさま……はい。わかりました。」
ヤナは、その目に確かな信頼の光を宿して、小さく頷いた。
……海洋民族ヴァイサリアン。その名が、意外な重みをもって、ミーアに迫ってくるのはもう少し先のことであった。