第五十九話 ユリウスの過去
「ご指摘のとおり、あそこに閉じこめられている女性は、私の母です」
その言葉に、ミーアは目を白黒させる。
――どういうことかしら……? バルバラさんは、やっぱり嘘を吐いていた?
うーむむ、っと唸るミーア。先ほどの全校集会で酷使された頭からは、早くもモクモクと煙が上がりつつあった。っと、その時だった。
「みなさん、あの……とりあえず、甘い物でも食べて少し落ち着きませんか?」
ラーニャとアンヌが、マカロンを載せたお皿を持ってきてくれた。
――おお、ご褒美がやってきましたわ!
ミーアは笑みを弾けさせる。
それは、一般的なお茶菓子に用いられる、普通のマカロンだった。
ミーアが妄想をたくましくして、思い描いたような、超豪華ケーキとは程遠いものではあったが……、甘い物に貴賎なし!
豪華なケーキであれ、一枚のクッキーであれ、甘い物はミーアを幸せにする。地下牢で、甘い物の魔法によって救われたミーアは、そのありがたみをよく知っているのだ。
……甘い物ならばなんでもいいのね? などと言ってはいけない……いけない!
ともあれ、口の中を幸せでいっぱいにしながら、ミーアは考える。
――それにしても、ユリウスさんがバルバラさんの子ども……。まぁ、バルバラさんのことですから嘘を吐いていたとしても、不思議はございませんわ。
なにしろバルバラは、ミーアが知るところ実に蛇らしい思考の持ち主だ。自分の目的のためならば、嘘を吐くことだって厭わないだろう。
それは、まぁ、そうなのだが……。
――けれど、なんだか、引っかかりますわ。あの時のバルバラさんの表情……。
ミーアとアベルに過去を語ったあの時の顔……。あれが嘘だとはとても思えなくって……。
――ということは、バルバラさんが騙されていた? でも……うーん……。
それも、なんだかあり得ないことのように、ミーアには思えたのだ。
あのバルバラが騙される? そんなことが、はたしてあり得るだろうか?
うんうん考えつつ、さくさくマカロンを食べ進めていくミーア。
その横で、ユリウスの話はゆっくりと進んでいく。
「みなさんにとっては意外なことかもしれませんが、あの人は……母は普通の人でした。貧しい中で、幼い私に愛情を注ぎ、育ててくれた」
彼の口から語られるのは、蛇に堕ちる前のバルバラの姿。貴族の子どもを身ごもった召使の女性が、追い出された先でも懸命に生活を営もうとした、そんな風景だった。
「転機が訪れたのは、私が七歳になった時でした。オベラート子爵家の跡取りたる一人息子が死んだことで、私に声がかかった。半ば強引に連れ去られるようにして、私は子爵家に引き取られました。必ず当主になって迎えに行くと、母とは約束して。でも……子爵家についてすぐに、母が死んだと教えられました。流行りの病にかかったのだ、と……」
――ふむ、母子それぞれに、互いが死んだと伝えて諦めさせた、というわけですわね。なかなか悪辣ですけれど、貴族の家がいかにもやりそうなことですわね。ふーむ……。
ユリウスを跡継ぎとして迎える際、最も邪魔なのはバルバラの存在だ。そこの関係を断っておきたいという考えはわかるが……引っかかることがないではなかった。
あの、バルバラともあろうものが、その程度の嘘に騙されたりするものだろうか?
――貴族の家に潜入して探るなんてこと、あの方ならば朝飯前という気がしますけれど……。ああ、でも、そもそもユリウスさんが死んだと聞かされるまでのバルバラさんは蛇ではないのでしたわね。あの方がいつの時点で蛇と接触があったのかもわかりませんし、一般民衆に貴族の家の内情を探ることは難しいかもしれませんわね。
そう納得しかけたところで、ミーアの耳にユリウスの言葉が届いた。
「まぁ、私のほうは本当に死にかけたのですが……危ういところを先代の皇妃さまに救われました。我がオベラート子爵家は、父があちこちの女性に手を出した関係で、貯蓄は底をつき、家は傾きかけていました。折悪しく、農作物の不作の時期がやってきて……。はは、まったく貴族なのに情けない限りですが、餓死しかけましたよ」
――先代の皇妃さま……パティのこと、ですわよね……?
それは、なんとなく気になる符合だった。確かに、金回りに困った貴族の家を帝室が救うということは、ないことではないのだが……。
あの日、バルバラと対峙した時、パティは言っていた。
「可哀想だ」と。
あの時の顔が、脳裏を過ぎった。
「そうして……体調が回復し、成長した私は、栄光あるオベラート子爵家を潰してやることにしたのです」
自らの復讐を語る彼の目には、暗い光が灯る……ことはなかった。
そこにあるのは、あくまでも穏やかで、知的な光だ。それは、すでにすべきことを終えた者の目だった。
「年老いてなにもできなくなった父の目の前で栄光ある子爵家の名を地に堕とす……。造作もないことでした。もとより帝室の助けがなければ自然に傾いていた家ですから。金遣いを荒くするだけで、すぐに破綻した。そして、一度は助けてくれた皇妃さまも、今度は助けてはくれませんでした」
それは、浪費をやめないオベラート家に呆れたから……とも考えられるが……。
――ユリウスさんの命にかかわる時だけ助けた、ようにも見えますわね。
ミーアの中に、一つの推論ができあがりつつあった。
それは、すなわち……。
――パティが、こちらの世界で抱いた感情を持ったまま、過去に戻り、過去を変えた……。そういうことではないかしら?
かつて、断頭台から過去に戻ったミーアと同じことを、パティもやったのではないか、とミーアは考えたのだ。だとしたら……それは。
自らの思考を整理するように、ミーアは目の前のマカロンに手を伸ばす。それを舌の上に乗せ、じんわりと溶かして、テイスティングする。
――ふむ、砂糖の甘味、このフレーバーは……。
などと、いったんお菓子で気を落ちつける。
一方でユリウスの話は佳境を迎えていた。
「そうして、子爵家を潰し、私の復讐は終わりました。母をはじめとした多くの女性を遊び半分に弄んだ父は、失意のうちに病死して。オベラート子爵家の名は地に堕ちた。正直なところ、復讐というのは、あまり気分のいいものではありませんでしたが……それでも一つの決着にはなった」
「復讐を終え、国外に渡ったあなたは、子どもたちのために生きようと決めたのね?」
ラフィーナの問いかけに、ユリウスは苦笑で答える。
「貧しい子どもたちのため、などと聖人じみた考えはありませんでした。というか、むしろ未練がましく、情けない話なのです。私は、ついつい、母と過ごした町並みに似た場所を求めてしまった。二度と会えぬ母の面影を――あの時、子爵家に行かなければ迎えたかもしれない、母とともにある日々の光景を、貧民街に求めてしまったのです」
子爵家の跡取りとして、いきなり貴族の家に引き取られたユリウスに、愛情を注ぐ者はいなかった。だから、彼の心の中で、母親の姿はいつまでも上書きされることなく残り続けた。
「人間というのは欲深い者。“母とともにある日々”であるならば、それが貧しさの内で死ぬという結末でも構わない、それは幸せなことなのだと、最初のうちは思っていたのですが……。つい、私は見てしまいたくなったのです。母とともに貧しさに囚われていた子どもが、まっとうな幸せを手にする未来を。しっかりと生きる術を得て、母を連れて貧しさから脱出する光景を。自分が迎えたかった光景を、彼らの姿を通して見たいと、思ったのです」
そうして、彼は、子どもたちへの教育を志すようになった。
けれど……そんな熱意を持った彼の前に、蛇は密かに忍び寄ってきた。