第六十六話 風邪ひきミーアは夢うつつ 前編
「うーん……、うーん」
自室のベッドの上で、ミーアは苦しそうにうなっていた。
剣術大会の日、雨に打たれて、水も滴る良い女(自称)になってしまったミーアは、アベルの奮闘にすっかり興奮してしまった。
アンヌの忠告も聞かずに、濡れた髪のままで動き回ったために、すっかり風邪をひいてしまったのだった。
お昼過ぎに、目をさましたミーアは、
「アンヌ? おりますの、アンヌ?」
ぼんやりとかすんだ瞳で部屋の中を見まわして、
「あら、おかしいですわ」
部屋の様子に首を傾げた。
しん、と静まった部屋の中には、人の気配はなかった。
雑然とした室内、適当にたたまれたミーアの服と、机の上に出しっぱなしになっているペン。
片付けが行き届いていない、どこか投げやりに管理された部屋に、ミーアは見覚えがあった。
――ああ、これは昔の……。
それは、前の時間軸のこと。
同じくミーアは風邪を引いたのだ。
「そうですわ。確か目をさましたとき、あの娘は部屋にいなくて」
ミーアの専属メイドである少女は、眠っているミーアを置いて外に出ていた。
さる大貴族の三女で、ミーアと話をする時はいつもニコニコ、お世辞を言ってきた。自分をほめたたえる声は耳に心地よく、ミーアのお気に入りだったが。
――風邪をうつされたくないからって、同じ従者の友だちのところでお茶してたとか、後で他の方から告げ口されましたっけ……。
ふいに目をさました昼下がり。たった一人の部屋が、なんだか妙に心細くて……。
まるで、世界にたった一人で取り残されたように感じたのだ。
「ミーアさま、ミーアさま……」
ゆさゆさと体を揺すられる感覚。ミーアがぼんやりと目を開けると……。
「ミーアさま、大丈夫ですか?」
すぐ目の前に心配そうなアンヌの顔があった。
「ふぇ? あっ、アンヌ……、あら、では、先ほどのは夢?」
混乱に、あたりをキョトキョトと見回すミーア。ミーアが寝ている間に掃除をしたのだろうか。部屋の中はきちんと整理整頓されており、埃一つ落ちていなかった。
それだけじゃなく、なんとなくミーアは気持ちが落ち着くのを感じていた。夢の中の部屋は、なんだか落ち着かなくって、自分の部屋じゃないみたいに思えたものだったけど。
「ずいぶんうなされていたみたいですけど……」
「あ、ああ、心配ありませんわ」
その答えに安堵の息を吐くアンヌ。どうやらベッドの脇に椅子を置き、ずっと見守ってくれていたようだった。
「アンヌ、風邪がうつりますわ。あまり近づかない方が……」
「なに言ってるんですか、ミーアさま。私は頑丈ですから大丈夫です。余計なことを心配してないで、寝てください」
アンヌはドンと胸を叩くと、ミーアのおでこに乗っていた布を別の物に変えた。ひんやりと冷えた布の感触が気持よくって、ミーアは再び眠りに落ちていく。
「ミーアさま、あの子、また一人で本読んでますよ」
「あら、またですの?」
それは、ある日の昼下がりのことだった。
ミーアの取り巻きの一人が、教室の片隅で本を読むクロエを見て意地悪な笑みを浮かべていた。
ミーアの前世の記憶にはクロエは存在していなかった。別に友だちではなかったし、接点はほとんどなかったから。
だから、その日のこともまったく本当に、おぼえてはいなかったのだ。
「ねぇ、どう思いますか? ミーアさま、あのクロエって子」
「なんでも、爵位をお金で買ったとか。そんな方が学園にいるなんて」
好き勝手に陰口をたたく取り巻きの女子たち。
ミーアは、それに加わることもなかったが、止めることもなかった。
「あまり興味ありませんわ。それより聞きまして? シオン王子のこと。従者の方も平民ながらなかなかの美男子で……」
「あっ、ミーアさま、目がさめたんですか?」
再び目覚めた時、ベッドのかたわらにいたのはクロエだった。
「ああ、クロエ……」
読んでいた本をそっと閉じて、クロエはミーアに顔を寄せた。
「なにかしてほしいこととかありますか? 水が飲みたいとか、食べたいものとか……」
「お見舞いには感謝いたしますわ。ですが、あまり近づいては風邪がうつ……なんですの、それ?」
ミーアは思わずツッコミを入れる。クロエの顔の下半分、鼻と口を白い布が覆っていた。
「マスクと言って、風邪がうつるのを防いでくれるものです」
さすがに大商会の娘、クロエは案外しっかり者だった。
「それとアンヌさんは、今、冷たいお水を汲みに行ってます。あと、前にお父様が送ってくれた風邪薬を持ってきたので、後で飲んでください」
そう言ってほほ笑むクロエに、ミーアは言いにくそうに言った。
「わたくし、あなたに謝らなければいけませんわ」
「へ……?」
突然のことに、きょとんと首をかしげるクロエ。そんな彼女にミーアは言った。
「あの時、あなたが苦しんでいるのに見て見ぬふりをいたしました。本当に、申し訳ありませんでしたわ」
「……えっと、ミーアさま、夢でも見たんですか?」
クロエはくすくすと笑った。
夢……、そうなのかもしれない。
本当はあんなことなかったかもしれないし、それに、もう訪れない未来なんか、夢と同じようなものなのかもしれない。
それでも、ミーアの胸にある罪悪感は、チクチクと鈍い痛みを放っていた。だけど、
「私、ミーアさまとお友だちになってから、すごく楽しいんです。サンドイッチをいっしょに作ったこともそうですけど、それより、お友だちと物語の話ができるなんて、夢みたいで。だから謝っていただくことなんかないです」
その言葉に、ミーアはほんの少しだけ心が軽くなったのを感じる。
ほのかに眠気を感じつつ、ミーアは小さな声で言った。
「……なにかお話を、して下さらないかしら……」
「え?」
「……してほしいこと。最近読んだ本で面白い物がございましたら、そのお話を」
「わかりました。そうですね、それじゃあ……」
クロエの、はにかむような声を聞きながら、再びミーアは眠りに落ちて行った。




