第五十七話 ベルはとても潔い
「あ……ぁっ……」
バルバラを見た瞬間、シュトリナは雷に打たれたように体を硬直させる。
ぱくぱく、と口を開け閉めするが、そこから言葉が発せられることはなかった……。
「あら、そんな風に大口を開けてはしたない。ふふふ、もっと近くでお顔を見せてください」
小窓から、にゅっと腕が出た。
それを見て、反射的に一歩、二歩と下がるシュトリナ。
「おやおや、髪が少し傷んでいますね。ろくなメイドをつけていないのでは? ああ、それとも、新しいメイドはつけていないとか? 他人に髪をいじられると私を思い出して怖いから、その髪もご自分で手入れをしているのではありませんか?」
ねっとりとした笑みを浮かべるバルバラに、シュトリナは真っ青な顔で、さらに後ろに下がろうとして……。
「リーナちゃんは、将来、ボクの髪を手入れしてくれる時のために、練習してくれてるんですよ?」
静かな、けれど、力強い声が響いた。
「リーナちゃん、階段、気を付けてくださいね。落ちたらケガしちゃうかもしれません」
その声に、シュトリナはハッとした顔をする。それから、ゆっくりと振り返ると……いつの間にか、階段の際までやってきていた。これ以上、下がると、ベルの言うとおり落ちてしまっていただろう。
相手の心の傷をえぐり、誘導する。それが蛇の手口……。口車に乗せられて、危うく階段から落ちそうになったことに、シュトリナは悔しげに歯を食いしばる。
「あら? ふふふ、そちらにも懐かしい顔がございますね」
一方、バルバラは、ぎょろりとベルに目を向けて、不愉快そうに顔を歪めた。
「やれやれ、巫女姫が殺したなどと聞いておりましたけれど、生きているではないですか。まぁ、あれも元王女。そこまで期待をするべきでもなかったのでしょうね……。あなたと同じですよ、シュトリナお嬢さま」
「リーナちゃんは、ボクの友だちです。我が友を愚弄することは許しません」
強い声で言うベルに、バルバラは若干あきれ顔で……。
「許さない、でございますか? 以前も思いましたが……あなたは少し危機感というものを持ったほうがいいのでは? ご自分が囚われの身であることを理解しているの……?」
「……へ? あ……」
と、ベルもそこで思い出す。
自身の腕をガッチリ固めて、動けなくしている者の存在のこと……。背後に立つユリウスのことを。
一瞬、これは、もしや……アレを使う時なのではないか? という思いが頭に浮かぶ。あの、嫌な男の子をやっちまえ……とミーアお祖母さまから教わった、アノ、禁断の技を……っ!
――今が、その時かもしれない!
ベルは、ふんっと、勇ましく鼻息を吐き……。
――あれ、でも、これ、どうやって蹴るんだろう……?
大きな疑問にぶち当たる。
後ろから腕をひねられた状態から、必殺のキックを放てるものなのだろうか……。
しばし黙考、いくつかの未来を想像し……結論はすぐに出る。
――無理っぽいかな……?
ベルは早々に諦める。自力での脱出は無理である、と。
潔い姿勢には定評のあるベルである。特に、その潔さは勉学の分野で発揮され、しばしば、宰相ルードヴィッヒの悩みの種になったりしたのだが……まぁ、それはともかく。
ベルは、改めて、ユリウスを見上げる。
「ユリウス先生、あなたが銀の祭具を盗んだ犯人だったんですか?」
とりあえず、ユリウスがなにか行動に移らないよう、会話で繋ぐ。
時間稼ぎは大事なことだ。入り口の肖像画を外してきたことで、異変が起きていることに誰かが気付くかもしれないし。それに、先ほどから一切声を出さずに、わざと存在感を消しているらしいシュトリナが何か手を打ってくれるかもしれないし。それに……。
――ミーアお祖母さまが、ボクたちの不在をおかしく思わないはずがない! きっと気付いて、なにか手を打ってくれるはずです。
……ベルたちが遅れてるけど、まぁいいかー! と、ミーアが思っているなどとは、夢にも思わないベルである。現実は残酷なのだ。
ともあれ、圧倒的に周りに味方が多いこの状況。時間さえ稼げば、状況が好転する可能性は大いにある。
ということで……自身で無茶をすることもない、と、すっぱり諦めるベルであった。
割り切りは、とても大事なこと。
算術が苦手なら、やらなくていいじゃない? 嫌なら、ちょっとぐらいサボってもいいじゃない? 別の得意なことを伸ばせばいいじゃない? 例えば、乗馬とか、利き甘味とか……そういうのを伸ばせばいいじゃない。
そう主張したいベルである!
……まぁ、実際にそれをやったら、怒られるだろうから、口には出さないが。
さて、ベルに問いかけられた瞬間、ユリウスはぴくん、と体を硬直させる。
しばし、呆然とバルバラのほうを見つめていたが……。
「ああ……ええ。ええ、そうですね。私の部屋に隠してありますから、探せばすぐに見つかると思いますよ」
あっさりと自白する。
「それは、バルバラさんを助けるためですか?」
「んー、それは、どうでしょう……」
今度は、微妙な返事だ。
「この島から、彼女を連れ出すのは、とても難しいことだと思いますよ。少なくとも、私には、その方法は思いつかないですね」
ユリウスは苦笑いを浮かべる。
「正直、荒事も得意じゃないし……できることといえば、このぐらいで……」
「あはは。そこのあなた、なかなか見どころがありますよ」
彼の言葉を聞いて、バルバラは楽しそうに笑った。
「そう。同じ蛇だからといって助けるなど無駄なこと。我々が考えるべきは、いかにして、相手にダメージを与えるか。さぁ、その小娘を殺しなさい。そうすれば、皇女ミーアと、そこのシュトリナお嬢さまに深刻なダメージを与えられる。効果的に彼女たちを歪められるでしょう」
バルバラは歪んだ笑みを浮かべて言う。けれど、
「そんなことはしませんよ」
ユリウスは、どこか悲しそうな顔で首を振る。
「もう……私の希望は叶いましたから」
「は……? 何を言っているのですか? あなたは……」
バルバラが怪訝そうな顔をした、直後のことだった。
「そこまでにしていただきましょうか」
厳粛な声。同時に、やってきたのは、数名の男たちだった。
その先頭に立っていたのは、ラフィーナの忠臣たる初老の男で……。
「サンテリ・バンドラー殿。確か、島の警備を担当されている方でしたね」
「この島を訪れた際に、ご挨拶させていただきましたな、ユリウス殿」
「見張りを立てなかったのも、あなたが?」
「ラフィーナさまの指示です。下手に暴れられて生徒に被害が及ばぬように。ここにおびき寄せて捕らえたほうがよい、と。計算外にお二方が巻き込まれてしまいましたが……」
サンテリの視線を受けて、ユリウスは、ベルを解放する。
「なにをしているのです? 人質を放すなどと……」
バルバラの焦ったような声が聞こえたが、それには答えず、ユリウスはサンテリのほうを見た。
「愚かなことをしましたな」
厳しい顔をするサンテリにユリウスは肩をすくめてみせた。
「手にしているすべてを失ってでも成し遂げたいことというのが、人にはあるのではないですか? 感謝しますよ。見張りを立てずにいてくれたこと……ここまで入ることを許してくれたことを……」
それからユリウスは、改めてバルバラのほうに目を向けて、深々と頭を下げた。