第五十四話 ベルは、だまされない!
「ベルちゃん、早く。もう、全校集会始まっちゃってるよ」
シュトリナに急かされて、ベルは走っていた。
「ごめんなさい。リーナちゃん。すっかり寝過ごしてしまいました」
昨夜は、シュトリナの部屋に泊まったベルである。積もる話は尽きることなく、すっかり夜更かしをしてしまったのだ。
――ついつい楽しくって、話し込んじゃった。反省しないと……。
などと思っているベルであったが……。実のところ、そこまでの焦りはない。
なにしろ、それは祖母ミーアの手配による全校集会なのだ。
――ミーアお祖母さまの準備に抜かりはないはずだし、今日は、特に、なにかをしろとは言われてないから。
だからと言って、寝坊したり、行事に遅れたりするのは皇女にあるまじきこと。
「うん、気を付けよう。やっぱり皇女たるもの、夜は早めに寝ないと」
祖母ミーアは、夜が早い人だった。それに倣い、自分もしっかりと寝るようにしよう、と心に決めるベルである。
っと……その時だった。彼女の目に、ある人物の姿が映った。
「……あれ? あれは……」
眼鏡をかけた、優しげな顔が印象的な男、それは……。
「リーナちゃん、あれって……ユリウス先生……でしょうか?」
特別初等部の講師、ユリウスが、学園の裏手に向かって歩いていく姿だった。
まぁ、別にそれは不思議ではない。彼は学生ではないのだから、全校集会に参加する必要はないのだ。
教師としてなにか、別の仕事を与えられている可能性もあるわけだし……。
ただ……なにかが気になった。なんとも言えない違和感が、あった。
そして、ベルが覚えた違和感を正確に言葉にしてくれる者がいた。シュトリナはユリウスの姿を見て、小さく首を傾げる。
「……変ね。どうして、聖堂にいないんだろう? ユリウス先生、あの性格なら、どうなるか、気にならないはずないのに」
そうだ……。彼は“子ども想いの優しい先生”だったはずだ。少なくとも、紹介されて以降、ベルの目には、そう映っていた。
ヴァレンティナのところに行って、帰ってきてからだから、そう長い時間ではなかったが……それでもベルの胸に残る印象は根強い。
それなのに、子どもたちの未来が懸かっている全校集会に出ない?
ミーアが、あの子どもたちをどう扱うのか気にならない?
それは、まったく彼のイメージに合わないことだった。
「ユリウス先生、いったいなにしてるんでしょう?」
首を傾げるベルに、シュトリナが抑えた声で言った。
「……ねぇ、ベルちゃん、もしも、どこかから宝物を盗まなきゃいけないことになったら、どうする?」
「え? うーん、そうですね……」
突然の問いかけに、ベルは、ふむっと唸ってから、
「こっそり、誰にもバレないように城壁を乗り越えて忍び込んで……それから、見張りの目にもとまらぬ早業で……」
シュシュっと腕を動かして見せると、
「ふふふ、そうね。ディオン・アライア……や狼使いとか、人間離れした連中なら、そのぐらいのことをやってのけそう」
口元に手を当てて、くすくすと笑うシュトリナ。その可憐な笑みが、次の瞬間には、妖艶な笑みへと変わる。
「でも、リーナやベルちゃんみたいに普通の女の子じゃ無理だよね。だからね、もしも、リーナだったら、どこか近くに火をつけると思う」
「……へ? 火?」
言葉を失うベルに、シュトリナは続ける。
「それでね、みんなが火を消すのに必死になっている隙に盗んじゃうの。盗まれたものなんか忘れちゃうぐらい大きな火事を起こせば、みんなの目を誤魔化せる。もしかしたら、逃げるまで、気付かれないかもって……そう思わない?」
「それって……」
歩き去るユリウスに、鋭い視線を向けるシュトリナ。その意味を、ベルは正確に理解する。
「なるほど……ふぅむ……」
ベルもまた、ユリウスの背中を見つめる。あの、穏やかそうな、ちょっぴり困ったような顔を思い出し……その顔でキラリと輝く眼鏡を思い出して……っ!
「……そう言われてみると、あの人……とっても怪しい!」
ベルは、言った。びしぃっと音がしそうな口調で断言する。
「なんだか、すごく怪しく見えてきました!」
ベルは、眼鏡の権威に惑わされたりはしなかった。とても冷静にユリウスのことを観察し、彼が怪しいと看破した。
眼鏡をかけているからといって、無条件に信じたりなんかしないのだ! 意外にも……。
それはなぜか……? ミーアより、見る目があるからか?
否、そうではない。
理由はもっと単純なこと。
すなわち……ベルに勉強を教える時、ルードヴィッヒは、眼鏡をかけていなかったからだ!
……そうなのだ……見えづらいのだ。教科書の小さい字は……。見えづらいから、眼鏡を外してベルの授業を行っていたのだ。
だからこそ、ベルの中では、勉強を教える時のルードヴィッヒに眼鏡のイメージは皆無。
ベルは眼鏡に権威を感じない。
そんな、眼鏡の呪縛から自由なベルは……。
「怪しい……。ちょっと追いかけてみましょうか」
そうして、二人の少女たちは頷きあって、走り出すのだった。




