第五十三話 帝国の叡智ミーア、教育を語りだす!
ミーアの言葉が響いた瞬間、会場は、しんと静まり返る。
詰めかけた生徒たちの顔に浮かんだのは、隠しようのない感銘の色――などではもちろんなく困惑と反感。あるいは嘲笑。
だが、それは当然のことだった。なにしろ、ミーアが言ったのは願望、あるいはミーア自身のスタンスである。
子どもたちがやっていないという証拠があるわけでもなく、信じるに足る根拠というわけでもない。
あくまでも、それは「ミーアが信じる」という表明に過ぎず……ゆえに、
「そんなことを言われても信じられるわけがない」
「下賤な民の子が盗みをしたって考えるのが、当然じゃない」
どこかから、こそこそとした声が聞こえてくる。
……帝国貴族の関係者じゃなければいいなぁ、などと思いつつ、ミーアは静かに、叡智の象徴たる眼鏡をくいっと持ち上げる。
慌てることはない。なぜなら、そんな反応は、すべて予想通りだったからだ。
ミーアは、改めて言う。
「わたくしは、この子たちの善良なる本質を信じておりますわ。彼らや、すべての子どもたちが持つ善良さを信じておりますわ。だからきっと、この子たちの中に、盗難の犯人はいないと考えますわ」
自身の確固たる信頼を表明する。その言葉に、ヤナやキリルを始め、何人かが居心地悪そうな顔をしたが、あえて、それを見ないふりをして、ミーアは言う。
「わたくしは、この子たちの善良なる本質を信じておりますわ。この子たちと食事を共にし、直接、会話したみなさんは知っているはずですわ。この子たちは、とてもいい子たちですわ」
子ども達にマナーを教えた者たち……そのことを聖女ラフィーナに褒められて、とっても良い思い出になっている者たちが、うんうん、と頷く。彼らの中で、特別初等部の子どもたちは、言うことを素直に聞くいい子たちということになっているのだ!
「だから、わたくしはこの子たちの善良なる本質を、信じておりますわ。けれど……」
繰り返し、されど、ここからが勝負と、ミーアは一度言葉を切って、みなの顔を見まわしてから、
「けれど……善良なる者が罪を犯す、そのようなことが時に起こりうるのもまた事実……。ゆえに、わたくしは考えますわ。もしも、『善良なる子どもたち』が悪事を働いたとしたら……その罪の責は、誰が問われるべきか、と……」
言いながら、ミーアはパティの顔を見つめる。
――パティのこの前の様子を思い出すと、ヤナとキリルの姉弟に危害が加わるような、悪事を働くとも思えませんわね。
しばらく悩んだ結果、ミーアが出した結論が、それだった。
確かに、パティは「銀の大皿」と言っていて、あの発言は怪しかったが……でも!
――たまたま、銀の祭具のイメージが大皿であることだって、ないとは言えませんわ。うっかり、頭に思い浮かんだイメージを、そのまま口に出してしまうことだって、あるはずですわ。
思っていたことと違う言葉が、口からポロッと出てしまう、目の前の光景に言葉が引っ張られることは、ないことではない。
パティの中で、銀の祭具のイメージが銀の大皿で、だから、ついそう言ってしまって……。それがたまたま現実と一致してしまったことだって、考えられるではないか。
――そのような薄弱な根拠によって疑念の目を向けてしまったら……信頼関係の修復は困難。パティを蛇から救い出すことが不可能になってしまいますわ。
逆に、本当にパティが犯人であった場合、それはそれで構わない。心から信じると表明するミーアに対し、パティの心には罪悪感が生じることだろう。そして、その罪悪感は、ミーアが一言『許してあげますわ』というだけで好意へと転ずる。楽をして、パティの好感度と信頼を得ることができるのだ。これは美味しい。
――ゆえに、わたくしのスタンスはあくまでも子どもたちを信じること。そのために“信じて裏切られた際のダメージを減らすこと”が大事ですわ。
目標を明確化したミーアは、そこに向け、論理を鋭く尖らせる。その様は、さながら槍のごとく、あるいは尖ったキノコのごとく。
「もちろん、罪を犯した当人は責任を負うべきですわ。けれど……わたくしたち、セントノエルに通う者は、それで終わったと思うべきではない。善良な者たちが罪を犯さざるを得なくさせてしまった、そのような状況を放置した、国の上に立つ者たちもまた、その責任を問われるべきではないかしら?」
ミーアは、そうして、特別初等部の子どもたち、一人一人の顔を見つめる。それから、彼らのほうに歩いていき、手前にいたヤナの頭に静かに手を置いた。
「例えば……ここにいるヤナが、弟の空腹を癒すために食べ物を盗んだとしたら……わたくしは、この子に、その罪を犯させた親を責めますわ。そして、その親を苦境に追い込んだ国の統治者をも責めますわ」
言いつつ、ミーアは確認するように、心の中で思い浮かべる。
……この子は、ガヌドス港湾国出身……っと。
「あるいは、将来への不安から、なにかお金になりそうなものを盗んだのだとしたら、その不安を生んだ、領主を責めますわ」
隣の席に座るキリルに、そして、その隣のカロンに目をやる。
――この子はヤナの弟で、こっちのカロン少年はヴェールガ公国の孤児院から送られてきてますけれど、別の国で保護された子ども……。
そう、当然のごとく、ミーアは把握している。子どもたちの出身国を。
そして、この子たちの中に、帝国出身の者はいない。一人たりとも、いない!
ゆえに、帝国が、ミーアが責められるいわれはないのだ!
絶対的な安全圏から、ミーアはペラペラと朗らかに話し続ける。
「わたくしは、悪事を嫌いますわ。盗みを嫌いますわ。されど、もしもこの善良な子たちが悪事を働いたのであれば……この子たちを嫌い、憎むことはいたしませんわ。それは、してはいけないことだと、悪いことだと教えるだけ……わたくしの怒りは、盗むという悪事そのものに、そして、この子たちに悪事を働かせる状況を作ったものに向けたいと思っておりますわ」
それからミーアは改めて、その場に集う生徒たち、一人一人の顔を見つめる。
「民を善良たらしめるのは統治者の務め。民を下賤と嗤うのは、己が統治のやり方を貶める所業。わたくしは、我が国の民を飢えさせることも、それで不満を言う民を蔑むこともいたしませんわ」
ミーアの、その言葉には説得力があった。自らの誕生祭において、その範を示していたからだ。
皇女ミーアの放蕩祭り、あれこそがまさに、今のミーアの言葉を正確に表すものだった。
「わたくしたち、セントノエルに通う者は、そのような視座に立たなければいけないのではないかしら?」
堂々とそう言い放ち……ミーアはニッコリとほくそ笑む。
ミーアの主張、それはすなわち“責任の所在をズラす”こと……。
“子どもたち自身の罪”を“子どもに罪を犯させた者の罪”とする。すなわち彼らの出身国の貴族に、その責任を問おうという論理。
そう、ミーアは、特別初等部の子どもたちの責任を問うて、石を投げようとする者たち自身に、その責任の石を投げ返したのだ!
この学園に通う王侯貴族の子弟たちは、ミーアからこう問われているのだ。
「この子たちも悪いかもしれないけど……お前の親も悪くね?」と。
この問いに、堂々と「我が国は違う!」と言い張れる者はあまりいない。
そのうえで、ミーアは自らの心の内を、一切の偽りを交えず……されど“若干の解釈”を加えて開示する。
やはり、人の心に一番響くのは本音だ。だからこそ、ミーアは熱意を込めて、こう主張する!
「わたくしは、この子たちが悪いことをしても責めはしませんわ。過去に悪事を働いたことがあっても同様に責めはしませんわ。反省を促し、二度とそれをしてはいけない、と教え、そして……自らを省みるだけですわ。善良な者たちに、罪を犯させていないか、と」
胸に手を当て、ミーアは言った。
そう、ミーアは常に自らに問いかけている。
民を革命に走らせていないか? 彼らが断頭台を作るよう、煽ってはいないか!? と。
自らが断頭台を呼び寄せていないかを常に自問自答する、それこそがミーアのスタイル。
それを、彼らにもわかるよう翻訳して、熱意を込めて語る。
「この学校を卒業する者たち、そのほとんどは、将来、国を支える者たちのはず。であれば、考えるべきですわ。民を善良に保つためには、統治する者の不断の努力と忍耐が必要であると。そして、子どもを教え導かぬのは親の罪、民を教え導かぬのは、我ら、統治する者の罪であると」
そこまで言って、ミーアは、ふぅっと額の汗をぬぐう。その一瞬の沈黙に合わせて、ぱちぱち、と……小さな拍手が響く。
ミーアの言葉に、賛意を表したのは聖女ラフィーナだった。
これにより、ミーアの見解は一個人のものではなく、ラフィーナの支持を得た『セントノエル学園の見解』になった。
無論、これは演出である。事前にミーアがお願いしておいたものだ。そのうえでミーアは、ラフィーナの威をきっちりと借りたうえで、
「このセントノエルにいる間に、みなさんは、それを学び、そして国に帰ってから後は、ここでの経験を生かしていただきたいですわ。盗難を憎み、正義を愛する心を持ったみなさんが、その心を使って国を治めることに期待いたしますわ。近い将来、みなさんが国を治める頃には、下賤なる民などという者がいなくなることを、願っておりますわ」
最後にミーアが付け加えたこと――それは、この場に集う者たちの責任を未来へと移す言葉だった。
すなわち……ミーアはこう言っているのだ。
「あなたたちの親には責任があると思うけど、あなたたち自身には、今のところ責任はないと思うよ! あなたたちが負うべき責任は将来、国に帰ってからのものだよ」と。
誰でも「お前が悪い!」と指摘されれば気分は悪いもの。頑なにだってなるだろう。
けれど、親はできてないかもしれないけど、あなたならそれを是正できるよ、と言われれば悪い気はしない。
また、自身の親に誇りを持つ者にとっては、そもそもうちの親はできてるから関係ない話だし、となる。ミーアの言葉が刺さるのは、うちの親って孤児とか貧民とか、あんまり大事にしてないかも? という者だけなわけで……。
次の瞬間、その場のあちらこちらから拍手の音が響く。
無論、それもまた演出だ。
生徒会のメンバーや、ミーアの息のかかった者たちの手による拍手を火付け役として、見る間に、拍手の音は聖堂内を駆け巡った。
それを見て、ミーアは静かに安堵のため息を吐くのだった。
かくして、後に大陸の教育理念の基礎に据えられる、その宣言は結ばれた。
我が子を愛するは、その行いによらず。ただ、その本質の存在によってせよ。
その行いが悪であれば、その非を教えよ。
そして、悪をなさせた環境と、教える責を負う自分自身を省みよ……と……。
後にこの時のミーアの言葉は『金至三訣』と呼ばれるようになる。
それは、子を黄金に至らしめる言葉として、さながら菌糸のごとく、各国で様々な形の教育改革を生じさせることになるのだが……。
それは、また、別の話なのであった。
その昔、宣教師さんに聞いた話。
「子どもが悪いことをしたからといって”そういうことをするあなたのことが嫌い”と言うのは良くないです。”あなたのことは愛しているけど、あなたのするその行為は嫌いです”というべきです」
とのこと。
子どもの行為と子どもの存在自体という、そんな切り分けがなされているのだなぁ、と感じた次第です。罪を憎んで人を憎まずに近い考え方なのかもしれませんが、アメリカの親はそういう考え方が多いそうです。今でもそうなのかはわかりませんが。