第四十九話 パトリシアは考察する
ところ変わって、特別初等部の教室。
「そういうわけで、今はラフィーナさまや、ミーア姫殿下が対応策を考えてくださっています。ですから、どうぞ、安心して。落ち着きをもって行動してください」
教壇から降り、集められた生徒たち一人一人の顔を見つめながら……ユリウスは言った。
「くれぐれも短気を起こしてはいけません。それは、君たちを助けてくれる人たちの立場を悪くするものだ。君たちがすべきことは、変わらずに勉強を続けること。何事もなかったように、静かにね。そうして身に着けたことは、将来きっと役に立つはずだ」
優しく気遣うような言葉……。
パトリシア――パティは静かに、彼の話を聞いていた。聞きながら、ジッと観察していた。
――ユリウス先生、どうして、私たちに、盗んだかどうか聞かないんだろう……?
疑問に感じたのは、そのことだった。
事件が起きてから彼は、一度たりとも、それを尋ねなかった。
――普通ならば、犯人に名乗り出ろと訴えかけるはず……。なのに、この人は、そんなこと、一度も言わなかった。
眼鏡の奥の優しげな瞳……そこに時折、悲しさを帯びた光が現れることに、パティは気付いていた。
――私たちのことを信じているから? それとも同情……? だとしたら、とっても……迂闊。
思いやり、優しさ、同情……そんな感情、付け入る隙以外の何物でもない。
それは、蛇の視点。相手の弱い部分を見つけ出し、そこを突き、操らんとする視点。
パティは、蛇の目をもって、人を見ていた。
教え込まれたとおりに……。
やがて話が終わり、ユリウスが教室から出て行く。それを見計らっていたかのように……。
「おい、カロン……」
静かに、押し殺した声が響いた。
「本当に、お前がやったんじゃないんだな?」
ヤナが、鋭い視線を少年に突き刺した。
「ちげえって言ってんだろ?」
不貞腐れた顔で言う少年。それを眺めながら、パティは考えていた。
――たぶん、嘘は言ってない。あの男の子は、信じるのが怖かっただけ……。
ヤナに盗みを持ち掛けてきたという少年の心理を、パティはそう分析していた。
降って湧いた幸せ、それを信じて裏切られるのが怖かった。だから、裏切られてもいいように準備をしようと思ったし、自分と同じ境遇のヤナも、本当は信じていないんだ、と思い込みたかった。
そのほうが、安心できるから。自分の知っている価値観に重なるから。
――だから、本当には盗んでない。盗むとしても、もっとバレないようなものを盗むだろうし。
孤児として、貧民街で暮らしたことがある人間ならば知っている。銀の大皿なんか盗んだって、お金にするのはとっても大変だ。まして、貴族が使うような銀の大皿を盗むだなんて、バカげている。
そんなもの、薄汚い子どもが持って行ったら、絶対に盗みを疑われるし、大人に奪い取られてしまうのがオチだ。
――それを知らないのは、貧民街で暮らしたことのない者だけ。貴族とか……。あるいは、最初から、売ることが目的ではない、とか……。
いずれにせよ、たぶん、カロンは犯人じゃない、とパティは判断する。
「くそ、せっかく……飯の心配をしなくて済むようになると思ったのに……」
ギリッと悔しそうに歯噛みするヤナ。だったが、その表情が、ふと和らぐ。彼女の手を、弟のキリルが、気遣うように掴んでいたからだ。
それから、ヤナは教室の生徒たちに目をやった。
不安げな、年少の少女たち。そして、ヤナと同い年の子たちもまた、泣きそうな顔をしている。
「しっ、心配はいらない。ミーア姫殿下は、すごく優しい方なんだ。ユリウス先生も言ってたとおり、信じて待っていれば……」
その言葉は、尻すぼみに消えていく。信じることとは一番縁遠い子どもたちに、その言葉を受け入れさせることが、どれほど困難か……ヤナは知っているのだろう。
パティはその光景を黙って眺めていた。
弟を守るために、必死なヤナ。どうやら、リーダー気質らしく、他の仲間たちのことまで気にかける苦労性の友人に、パティは静かにため息を吐いた。
――あんな風にたくさんのものを抱えていたら、その内、全部、手放さなきゃいけなくなる。私は……そんなことしない。
そっと目を閉じると、浮かんでくる顔があった。
生気の感じられない、やせた顔……。弟の……ハンネスの顔。
――あの子を救うためには、蛇の知識がいる。そのために……私は蛇にならなければならないから。
それこそが、パティの行動原理。唯一の肉親を救うために、彼女は蛇の知識に縋ることを選んでいた。
……正直なところ、パティは蛇が好きではない。
蛇の理想のためには、目の前のこの姉と弟のような者たちが、大勢、犠牲になる。
それに、きっと、この子たちと友だちになったなんて言ったら、この子たちを人質に、やりたくもないことをやらされるに決まっている。
あるいは、目の前で殺して、絶望を刻みつけようとでもするだろうか?
いずれにせよ、そんなもの、好きになれるはずがない。
――蛇は、弱者の絶望に根を張る。その毒から逃れることはできない……。
教師役の女の声が、頭の中で響いていた。耳を塞いでも決して消えない、ねっとりとした声。パティの心を縛り付ける声。
今までにパティが教えを受けた蛇の教師は三人。いずれも、陰気で、絡みつくような声をした者たちばかりだった。
だけど……今度の蛇の教師は、少しだけ変わっていた。
――ミーア先生……あの人、なんなんだろ?
帝国皇女を騙り、それを演じようとするあの人のことが、パティはあまり嫌いではなかった。
――ここに来てから、わからないことばかり。それとも、私を試そうとしているのかな?
いずれにせよ、パティがやるべきことは決まっていた。
蛇の教えに従順に、決して逆らわずに……。
――ハンネスを救うためだから。
唯一の肉親である弟を、病から助けるために……。