第四十一話 敵意には敵意を、信頼には……
来週ですが、遅めの夏休みとしたいと思います。
30日の週に再開します。
特典SSを頑張って書かねば……。
ふかふかのベッドで眠る弟、キリル。その、安心しきった顔を見て、ヤナは思わず苦笑いだ。
「簡単に油断しすぎだぞ。キリル」
柔らかな髪を撫でながら、つぶやく。洗い立ての髪はサラサラで、なんとも手触りがいい。
ガヌドスにいた頃には、風呂など入ったことはなかった。水浴び自体はしていたけれど、こんな風に上等な洗髪薬を使ったこともなく……。
ヤナは自分自身の髪を軽く触って……そこから漂う良い香りに、かすかに笑みを浮かべてしまって……。誤魔化すようにつぶやく。
「ま、油断するのはよくないけど、疲れたから仕方ないよな。今日の午後の授業おかしかったし……」
あの、おかしな昼食会……自分たちに絡んできた貴族たちと並んで食事を食べるという、わけのわからない食事会の後、午後の授業は、さらにおかしなものだった。
「健全な精神は、自然の中で育まれるもの。健全な心はキノコに宿るとも言われますわ。ちょうどこのセントノエル島には、良いキノコの狩場がございますし、午後はみなでキノコ狩りに行くことにしましょう」
ミーア姫の号令のもと、ヤナたちは、セントノエル島の森へと連れ出されたのだ。まったくもって意味がわからない。
午前の授業はわかりやすかった。
講師のユリウス先生は言っていた。文字を習えば、神聖典が読めるようになる。そうすれば、どのように生きればいいのかを学ぶことができる。
なにが人の道で、どうすると人の道を外れてしまうのか……正しさとはなにか? 悪とは、罪とはなにか?
それが理解できれば、犯罪に手を染めにくくなる。それは、統治者にとっては、支配しやすい優良な民だ。
そんな理屈は、よくわかった。
誰かに勉強を教わったことがなかったヤナではあっても、それはとても分かりやすい話で……。
だからこそ、午後の授業のおかしさが際立っていた。
みんなで連れ立って、キノコ狩りをさせられる意味はまるっきりわからなかった。
「自分たちで食べる分は自分たちで採ってこいってことなのか? でも……」
あれは、労働ではなかった。どちらかと言えば、遊びだ。
キリルや年少組の女の子二人などは、とっても楽しそうに走り回っていた。
生きるために、必死に食糧を得ようとしていた、あのころとは大違いだった。ヤナは、キリルのあんなに楽しそうな顔を見たのは、初めてかもしれない。
「あの人、いったいなんなんだろう……」
自然、口をついたのは、そんな疑問だった。
それは、昨日からヤナの胸にある疑問でもあった。
帝国皇女ミーア・ルーナ・ティアムーン。帝国の叡智と名高い姫殿下。
彼女のことが、ヤナには理解できなかった。
昼食の時のことを、ヤナは思い出す。
あの貴族の少年の言いようには腹が立ったけど、同時にヤナは、その中に理を見つけてしまう。自分たちなんか、なんの役にも立たない。むしろ、治安を悪化させる害悪に過ぎない。たぶん、あの漁師はそう思っているし、ガヌドス港湾国の貴族たちも、そう思っているに違いなくって……。
まして、ヤナは海賊の子だ。ずっと蔑まれ、厄介者扱いされてきた。
いっそ死んでしまえば面倒がない、と陰口を叩かれ、自分でもそうかも、と思わないでもなかったが……。自分に悪意を向けてくる人間の思い通りにしてやるのがシャクだったから、懸命に生きてきた。ヤナが生きる理由は、それだけだった。
――なのに……ミーア姫殿下は、あたしを特別初等部のリーダーにした。あたしを、信じてくれた……。
そう考えて……ヤナは戸惑う。
どうして、そんなに簡単に信じられるんだろう、と。
自分のことなんか、なにも知らないはずなのに、と。
唯一の家族であるキリル以外、ヤナは信じたことはなかった。信じて裏切られたら、自分も弟も終わってしまうのだから、それは当たり前のことで。
だからこそ、無条件に信じてくれたミーアのことが、まったくわからなくって……。
その時だった。こんこん、っとノックの音が響いた。
「誰だろ……?」
一瞬の警戒……けれど、すぐに苦笑いを浮かべる。
なにしろ、ここはセントノエル学園だ。特別初等部の生徒は、ミーア姫の縁者だというパトリシアを除いて、学園の聖堂の隣にある建物に住むことになった。学園敷地内の中に、彼らは住んでいるのだ。
そこは世界で一番安全な場所。警戒する必要など、なにもないだろう。
ため息混じりにドアを開ける、と、立っていたのは、特別初等部の男子生徒。名前は、確か……。
「ああ、ええと、カロンだっけ?」
ヴェールガ公国の孤児院から来たという、ヤナと同い年の少年だった。
おさまりの悪い髪と、ちょっぴり鋭い目つきが特徴的。いかにもやんちゃそうな印象を受ける少年である。
「どうかした?」
キリルを起こさないように、廊下に出る。と、カロンは辺りをキョロキョロ見回してから、
「なぁ、ちょっと出られるか?」
「出る? どこに?」
首を傾げるヤナに、カロンは白けた顔をした。
「どこにって、決まってるだろ? なにか金目のものがないか探しに行くんだ」
「金目の物?」
「なんだよ、海賊の子どもだとか言ってたから、もっと抜け目ないやつだと思ってた。てっきり、もういろいろと目星をつけてると思ったのに」
「どういう意味だよ、それ……」
知らず、ヤナの声が低くなる。
「貴族なんて気まぐれなんだってことさ。こんな風に優しくしておいて、明日にはすぐに切り捨てるんだ。犬や猫と同じさ。だから、いつ切り捨てられてもいいように、金目の物を盗んでおこうって……ね」
ニヤリと笑みを浮かべるカロンに、ヤナは……。
「やめろよ、そんなの……」
思わず言っていた。
「え……?」
それを聞き、目を丸くするカロン。一方のヤナも、自分の言葉に驚いていた。
――あたしは、なにを言っているんだ……? こいつの言うことは、すごくもっともなことで……。
と、冷静な部分が告げているが、それでも……口が勝手に動く。
「ここは……違うよ……。あんたや、あたしたちが今までいたところとは違う。少なくとも、あのミーア姫殿下という人は……信じていいんじゃないかって、あたしは思ってる」
「なんだよ、もしかして、リーダーに選んでもらえたのが嬉しかったのか? あんなので信じてもいいって、どんだけ抜けてんだよ? よくそんなので生きてこられたな」
カロンの言葉は、不思議と、ヤナの胸に響かない。
それは今までヤナが持ち続けてきた価値観に合致する言葉なのに……、今はなんだか、とても腹立たしい言葉に聞こえて……。
「別に、なんでもいい。ともかく、勝手なことはあたしが許さない」
吐き捨てた言葉に、カロンがキッと目つきを鋭くする。
「おい、どうでもいいけど、リーダー面すんなよ」
ドンっと肩を押してくるカロン。
なるほど、カロンは確かに、孤児院でそれなりに大変な目に遭ってきたのだろう。暴力と威圧により、その場を制する方法を心得ていた。
……だが、孤児院にすら頼らず、二人きりで生きてきたヤナのほうが……荒くれの漁師の目を盗み、裏路地で生きてきたヤナのほうが……修羅場の経験値ははるかに多い。
彼女は逆にカロンの襟首をつかみ、締め上げる。
「いって……」
「何度でも言う。勝手なことはするな。もしも、勝手なことしたら、絶対に許さない」
「くそ、放せよ」
苦しそうに言うカロンだったが、ヤナは手を放さなかった。
「ダメだ。約束しろ。絶対に、そんなことしないって……」
……その時だった。
「なにかありましたか?」
不意に、静かな声が、聞こえてきた。
「あっ、ユリウス先生……」
視線を向けると、静かな笑みを浮かべるユリウスが、そこに立っていた。
慌ててカロンを放すヤナに、ユリウスはわずかばかり厳しい顔を向ける。
「ヤナさん、どんな理由があろうとも、暴力を振るってはいけないよ。暴力に頼ってしまった時、君は正しさを失うんだ」
それは、この世の真理を語るかのごとく、揺らがない声。厳然たる口調。だが、それがすぐに崩れる。
「と言いたいところだが……、それは合理的じゃないな。時に、暴力が必要になることも、世界にはある。カロン君が、なにか悪いことをして、締め上げられても仕方ない状態にあったのかもしれないな」
などと、ぶつぶつ言いながら、今度はカロンのほうに目を向ける。
「いったいなにがあったのか教えてくれないかな? 告解を聞く神父ほどではないが、口は堅いつもりだよ」
その声には、どこか、人を安心させるような温かさがあったが……さすがに素直に言うわけにもいかない。
顔を見合わせて、口をつぐんだヤナとカロンを見て、ユリウスは小さくため息を吐き、
「まぁいい。いろいろ事情はあるのだろうけど、仲良くしなさい。せっかくセントノエルで学ぶことになった、学び舎を共にする仲間なんだから。喧嘩なんかしてもつまらないだろう」
穏やかな声で言ってから、ユリウスは去っていった。