第四十話 低きに流れ、パンを食べ……
さて……一体、どんなことをすればよいのか……。
どんなことをパティに教えればいいのか……。
眼鏡をかけたことで、すっかりやる気になったミーアは昨夜一晩、たっぷり寝ながら考え、早起きして朝風呂へ。そこでジッと目を閉じて考え、時々、ざんぶ! とお湯の中に潜りながら、考え、考えて……。
「まっ、まったく、思いつきませんわ!」
そう頭を抱えたのは、午前の授業が終わった昼食前の時間だった。
ちなみに、子どもたちにミーアが教えるのは、午後からの時間である。午前中は基礎的な勉学をユリウスが教え、午後の時間にミーアが道徳・倫理的な心得を教えることになっているのだが……。
そもそもの話、別に道徳的に潔白でもなければ、倫理的な正しさを持っているわけでもなく。なんらかの哲学に通じているわけでもないミーアである。
ハリボテの叡智をいかに絞ったところで、良い考えが浮かぶはずもなし!
「こっ、子どもたちに何を教えればいいのか……。これは、もしかしたら、今までで一番のピンチなのでは……?」
かといって、情けない姿を晒すわけにもいかない。パトリシアに蛇の教育係と名乗っているのだ。
「ミーア先生の授業、楽しみにしてます」
などと、ニコリともせずに……言っていたパトリシアの顔を思い出す。
あの期待を裏切るのはマズい。今後の発言権にかかわってくる。
「ぐ、ぐぬぬ。わっ、わたくしが教えられそうなのは、紋章学とダンス、あと乗馬……」
なんとか、子どもに教えられそうなものを指折り上げていき……。
「くっ、手持ちのカードが少なすぎますわ」
そもそも、それ、教える意味あるか? などとも思ってしまう。なにしろ、しなければいけないのは、彼らを蛇にしないことなのだ。ただの勉学ではないところに、なんとも言えない難しさがあった。
こうして悩んでいる間にも、特別初等部の授業時間が迫ってくる。
「なっ、なにか、クロエに本を用意していただいて、それを読み込んで教えるとか……?」
でも、それって……とっても面倒。難しい本なんか読みたくない……というか間に合わない!
そうして、久しぶりに頭をモクモクさせつつ、悩み悩み、悩みぬいた末……ミーアはっ!
「そうですわ! わたくしは、遊びに連れていくことにしましょう!」
低きに流れていった!
そう……仮に波がなくとも水は流れを作るものなのだ。高いところから、低いところへ。
そうして、ミーアは流される。低いほう、低いほうへと。
「ああ……そうでしたわ。そもそも難しい勉強はユリウスさんがしてくださるはず。とすればわたくしが教えるべきは、そうしたことではないはずですわ」
何事もバランスが大事なのだ。
口に苦い良薬ばかりでは、人生は彩りのないものになる。良薬をユリウスが担うなら、ミーアがすべきは……口に甘いお菓子の役割。
不意に、ミーアは視界が開けたような気がした。
「ああ……そうですわ。そうでしたわ……。わたくしは、なにを考え違いをしていたのかしら。わたくしは、甘いお菓子を担当しようと、昨日思ったばかりでしたのに」
厳しくするのは自分じゃない。自分は、甘やかすほうを担当する。
それこそが、ミーア式統治法……甘海を泳ぐ海月式教育法なのである。
「そうですわ。要するに、蛇にならないようにするには、この世界が壊したくなくなるぐらい、良いものだと思わせてあげればいい。であれば、わたくしの時間は、子どもたちに一杯楽しい経験をさせてあげるのが良いですわ! とりあえず、馬にでも乗せて……いえ、むしろキノコ……」
そうして、ミーアは、晴れ晴れした気持ちで、食堂に行き――目撃してしまう。
特別初等部の子どもたちが、食堂のはずれに固まって、硬い表情で座っていること。そして、それを見下ろすように、三人の男子生徒が仁王立ちしていることを。
「おい、どうして僕たちより、お前たちのほうに、先に食事が届くんだ? 孤児のくせに、生意気な……」
――ほほう、生徒会の決定に表立って文句を言う、気骨ある子がいるとは意外ですわ。この子たち、ラフィーナさまに盾突いているということがわかっているのかしら?
前の時間軸のミーアですら思いもよらぬ暴挙。このセントノエルでそのようなことをすれば、どんな目に遭うか……あの生徒たちには想像がつかないらしい。
けれど、それも仕方のないことなのかもしれない。見たところ、彼らは新入生。この春からセントノエルにやってきた、幼い男の子たちだ。
血気にはやり、民を見下す。実に貴族らしい物言いは微笑ましいほどで……。
「私たちのほうが先に注文したからじゃないでしょうか?」
特に気負う様子もなく、パトリシアが言った。チラリと男子生徒たちを見上げ、いつものように、なんの表情も浮かべない顔で……。
そんなパトリシアの様子に、ますます男子生徒は憤る。
「なんだと? お前、俺たちに口答えするのか!? 帝国貴族の俺たちに」
その言葉に……ミーアの背中に、さぁあ! っと鳥肌が立った。
――てて、帝国貴族!? それはマズいですわ。
どっかの適当な国の貴族ならばいざ知らず、帝国貴族であれば、その非道の責任を問われるのは、最終的にはミーアである。なにしろ、ミーアは帝国皇女。帝国のトップなのである。
――くぅ、サフィアスさんやエメラルダさん、ルヴィさんがいなくなったから、抑えが効かなくなってるのかしら……。想定外ですわ。
ミーアの意を尊重し、裏で帝国貴族の取りまとめをしていた三人。そんな彼らがいなくなった影響だった。残った四大公爵家の子弟はシュトリナのみ。
シュトリナの能力は別にして、最弱のイエロームーンの家名は、他の四大公爵家よりも影響力が低いわけで……。
――今後が思いやられますわ……。
などと思いつつ、やや慌てて歩み寄ろうとしたところで……。
「やっ、やめてください。あたしらは、ただ食事がしたいだけで……」
一人の少女が立ち上がった。長い前髪に隠れ気味の顔、彼女の名は……。
――あら、あの子……ヤナさんですわね。本当なら一番に突っかかっていきそうですのに、リーダー役だからって諫める側に回ってくれてますのね。
ちょっぴり意外に思いつつ、ミーアはずんずん歩み寄っていき、そして……。
「ご機嫌よう、みなさん。これは何の騒ぎかしら?」
優雅に笑みを浮かべつつ、言ってやる。
余計なことしやがって、この野郎……などという、ちょっぴりアレな本音は胸の内にしまいつつ、ニコニコ笑みを絶やさない。
「あっ、ミーアお姉さま」
ミーアのほうを見て、パトリシアが声を上げる。それにつられて、下を向き、ジッと固まっていた子どもたちが視線を上げた。
「あ、あなたは、ミーア姫殿下……」
パトリシアたちを睨みつけていた少年たちも、びっくりした様子で飛び上がった。当然だ。彼らの格はミーアはおろか、四大公爵家にも劣るもののはず。
であれば、ミーアに盾突くことなどできようはずもなし。
ミーアは、ふん、っと偉そうに鼻を鳴らしつつ、腕組みしながら少年たちを眺める。
そんなミーアに、リーダー格の少年が言った。
「ちょうどよかった。お考えをお聞きしたかったのです。なぜ、姫殿下はこのような無駄なことをなさるのですか? 金を持つ商人の子ならば、平民であっても通わせる意味はありましょう。金は力、才覚持つ者の証です。我らのために役に立つ者もおりましょう。ですが……」
彼は、一転、表情を歪めて子どもたちを見る。
「こいつらは食うのにも困る貧乏人の子。あるいは、罪人の子まで混じっているというではありませんか?」
馬鹿にするように、見下すように、ヤナを見てから、少年は続ける。
「なぜ、このような者たちを? 食事のマナーすらわきまえぬ者たちばかりではないですか? なぜ、こんな薄汚い連中を我々と同じ学び舎に入れるのですか?」
その発言を聞きながら、ミーアは内心で冷や汗をかいていた。
――ああ、そんな大きな声で、ラフィーナさまが嫌いそうなことを……。
この食堂で、そんなことを大声で言っては、絶対にラフィーナの耳に入ることだろう。そうなれば、きっとラフィーナのご機嫌を損ねるに違いない。シオンにしても、聞いたらきっと眉をひそめるに違いない。これはよくない。
実になんとも帝国貴族らしい少年の言いように、ミーアは頭痛を感じつつ、
「なにゆえ、と問いますのね……」
さぁて、なんと答えたものだろう、と思案する。
彼らに理解させるのは、なかなか難しそうだ。非を認めさせ、子どもたちへの謝罪を引き出し、それをもって、ラフィーナの機嫌を鎮めることは、どうやらできそうにない。
かといって、なんだか、気が立っている様子の彼らを権力で押さえつけるのは、後々の禍根となりそうだ。そもそも、特別初等部の構想自体、正論と権力によって無理に通したのだ。
ここでさらに力づくというのも、少々危険……とミーアの直感が告げていた。
――というか、もう少し落ち着いてからでないと、まともに話ができなそうですわね……。どうしたものか……。
思案に暮れるミーアは……低きに流れていく。
低き、すなわち……より原始的な欲求、すなわち……食欲へと。
ミーアの鼻が捉えたもの、それは、焼き立てのパンが放つ芳ばしい匂いであった。あれにハチミツをたっぷりつけて食べたら、たいそう美味しいに違いない。
――こんなに美味しそうなものを目の前にして言い争いなど、なんて不毛な……いえ、そうではありませんわね。
その時だった。ミーア、不意に閃く!
そもそも、彼らはなぜこんなにも腹を立てているのか? 気が立っているのか?
理由はとても簡単。ヒントはすでに出ていた。
彼ら自身が言っていたではないか。
『なぜ、こいつらが先に食べているのか?』と。
――ははぁん、なるほど。この子たち、お腹が空いて気が立っているのですわね。ならば、その解消が先決……。
腹が減れば、人はイライラするもの。であれば、まずは満腹になり、機嫌がよくなったところで、なにか適当に言いくるめるのがよかろう、とミーアは判断する。
「なるほど。よくわかりましたわ。ならば、あなたたち、ここに一緒に座りなさい」
「……は?」
きょとんとする貴族の子弟たちに、ミーアはニッコリ笑みを浮かべて。
「あなたたちは、特別初等部の子どもたちが、自分たちより先に食べることに腹を立てている。ならば、先に食べず、一緒に食べれば何の問題もないはずですわ。ああ、それと、食事のマナーも気になっているのですわね? ならば、あなたたちで教えて差し上げれば、なんの問題もありませんわね」
そうして、ミーアは、ヤナとパトリシアの間に、席を作らせる。
「もちろん、わたくしも一緒に食べますわ。構いませんわよね?」
黙って他人が食べているのを見守れるほど、ミーアは人間ができていない。午前いっぱい考え事をしていたミーアの脳みそが、食を欲していた。
今、テーブルの上に用意されたパンなど、すべて平らげられそうな気分なのだ。
帝国の最高位、ミーアがともに食べよ、と言う。帝国貴族に属する者に、その言葉を無視することはできない。
少年たちは、戸惑いながらも、各々、特別初等部の子どもたちの間に席を作り、座る。
「さ、とりあえず、食事ですわ。お腹が満ちたら、存分に語り合いましょうか。この子たちをこの学園に入学させた意味を」
そう言いつつ、ミーアは思っていた。
――たぶん、騒ぎを聞きつけたラフィーナさまが来るはず。そこでまず、帝国貴族の子弟と特別初等部の子どもたちが仲良く食べてる姿をアピールして、粗相を帳消しにしてもらう。その後で、特別初等部の意義を『混沌の蛇』に関する部分だけ上手くボカシて語ってもらえば良いですわ。ふふふ、我ながら、完璧ですわ。
ニンマリ、内心でほくそ笑みつつ、ミーアは、目の前の柔らかいパンに手を伸ばすのだった。