第三十八話 ベルロンパ
ヴァレンティナ・レムノが閉じ込められている部屋は、質素な部屋だった。
家具と言えばベッドと、小さな机のみ。そして、机の上には無造作に神聖典が置かれていた。
「まったく悪趣味よね。蛇の巫女姫に、神聖典を一冊だけ渡して閉じ込めるなんて」
ヴァレンティナは楽しそうに笑って、神聖典を手に取った。
「退屈したら読めってことなのかしら? ふふふ、聖女ラフィーナと地を這うモノの書で同じことをしたら、どんな風になるのか、試してみたいわ」
ぽーいっと神聖典を投げ捨てて、ヴァレンティナはベッドに腰を下ろした。
「せめて、紙とペンがあれば、地を這うモノの書の複製に勤しむのだけど……。ということで、時間を持て余していたから歓迎するわ。アベル。今日は何をしにきたの?」
そんなヴァレンティナを部屋に入ってすぐのところで、アベルは見ていた。
「お元気そうでなによりです、姉上。今日は、会ってほしい人がいたので、お連れしました」
そうして、アベルは一歩、部屋の中に入る。その後ろから現れたのは……。
「あら、嬉しいわ。リーナさん。あなたが自分から会いに来てくれるなんて、思ってなかった」
ヴァレンティナは、軽やかな笑い声をあげた。
「あなたには、もう一度、会ってお話したいと思ってたのよ? 本当なら、お茶を淹れて歓迎するところなのだけど、今は囚われの身。なんのおもてなしもできないことを許してほしいわ」
対して、シュトリナは、華やかな笑みを浮かべて首を振る。
「ご機嫌よう、巫女姫ヴァレンティナさま。せっかくですけれど、おもてなしは結構です。なにが入っているか、わかりませんから」
「あら……ずいぶんと、良い顔で笑うのね、リーナさん?」
怪訝そうに眉をひそめて、ヴァレンティナは言った。
「私は、あなたの大切なものを奪ったつもりでいたのだけど……誤解だったのかしら? てっきりあの子は、あなたの無二の親友とみていたのだけど……あっ、もしかして、そんなに大切ではなかったとか?」
煽るように、えぐるように、シュトリナの心を責め立てるヴァレンティナの言葉。けれど、シュトリナは、それに眉一つ動かさない。
「あ、それとも、死んでしまったあの子……ええと、ベルちゃんだったかしら?」
その名前が、ヴァレンティナの口から出た、その一瞬だけ、シュトリナの肩がピクリと震える。それを見て満足そうに、ヴァレンティナは笑う。相手の感情を逆撫でするよう、計算されつくされた嘲笑を浮かべて……。
「あのベルちゃんが、天国に行ってしまったベルちゃんが復讐を望まない。リーナちゃんの手を汚すことを望まないで幸せになってほしいって……そう思ってるから、復讐をやめたのかしら? うふふ、素晴らしいわ、美しい友情ね」
そんな風に笑っていた、その顔が……次の瞬間、カチンと固まる。
なぜなら……、
「わっ、すごい。さすがは巫女姫。完全に当たってます。よくわかりましたね!」
「……は?」
シュトリナの後ろから現れた少女に……その口が、ぽかんと開く。
その……自分が殺したはずの少女、ベルの姿を前に……。
そんなヴァレンティナの動揺になど、まるで構わずに、ベルは、いっそ能天気と言ってしまいそうなぐらい自然な態度で、ちょこんとスカートを持ち上げて。
「はじめまして。ヴァレンティナ大伯母さま。ミーアベルと申します。以後、お見知り置きを」
堂々たる、名乗りを上げる。
「…………どういうこと? あなたは、あの時、確かに……」
余裕のない声で問うヴァレンティナに、ベルはニッコリ笑みを浮かべる。
「ああ。あれ、すっごくビックリしました」
首筋をペタペタ撫でながら、ベルが言う。そんなベルの手を握って、シュトリナが言う。
「ベルちゃんは生きてる。だから、あなたに復讐する必要はない。それだけのこと……。リーナは、あなたの口車に乗って、毒を盛ったりなんかしない」
キリッとした顔で胸を張るシュトリナに、ベルが「あれっ!?」と、なにやら言いたげな顔をしていたが……すぐに気を取り直したように首を振って、
「はい。そのとおりです。リーナちゃんは、優しい? ので、誰かに毒を盛ったりなんか、しません。たぶん……!」
自信満々に言い切って、ベルはビシッとヴァレンティナを指さした。
「残念ですが、あなたの狙い通りになんかなりません」
この先の歴史を知り尽くした賢者のごとく、その言葉は力強い。
対するヴァレンティナは、小さく肩をすくめる。聞き分けのない子どもに向けるような苦笑いを浮かべて、
「ああ……そう。まぁ、それでも同じことよ? あなたが生きていても、リーナさんが蛇に堕ちなかったとしても。だって、蛇は死なないもの。人が人である限り、人が強者と弱者を作り続ける限り、混沌の蛇は何度でも甦るのだから」
「うーん、まぁ……確かに死なないのかもしれませんけれど……」
ベルはきょとんと首を傾げてから、
「眠らせ続ければいいだけのことですから」
ニッコリ、笑みを浮かべた。
「起き上がってきたら、後ろから頭をガツンと殴ったりとか。相手が男の子だったら、こう、下からキックを……」
「ベルちゃん……」
「ベルさま……」
後ろから声をかけてくるシュトリナとリンシャ。ベルは、ぐむっと口を閉じ、
「ええと、ともかく、蛇が死なないなら、蛇が起きないような状況を整えればいいだけです。この世界を、壊したりしたらもったいないって思えるような、そんな世界にすればいい。それだけです」
「あはは、子どもね。そんな夢みたいな話が実現すると信じているの? そんなもの、今まで一度も実現したことがないのに」
「信じていますよ。だって、幸せな夢の続きの世界を作ってくれた人のことを、ボクは知っていますから。ボクたちは、それを守っていけばいいだけなのですから」
ベルの言葉は揺らがない。
ヴァレンティナの言葉は蛇の言葉。相手の心の隙を突き、揺らし、不安を生み出し自信を奪う、計算の言葉。
けれど、ベルは小動もしない。
なぜなら、彼女は、夢みたいな世界からやってきたから。
ミーアが築いた世界は、確かに、蛇の出現を抑えることを知っていたから。
「ボクは、あなたが地を這うものの書から、どんなことを読み取ったのか知りません。でも、それは、世界が始まった時から永久に変わらない不変のルールでもなければ、誰しもが従わざるを得ない絶対的な支配でもない」
特に気負うでもなく、静かな口調で、ベルは続ける。
「ミーアお祖母さま、言ってました。統治者が油断したら民が不満を持つのは当たり前のこと。それを放置すれば破滅がやってくるのは当然のことで、それは絶対の法則なんだって。だからこそ、統治者はいつでも民を、踏みつけにされる弱者を見ていなければならないって」
「なるほど。確かに、一人の優れた指導者がいれば、その人物が生きている間は平和が来るかもしれない。だけど、それとて一時的なもの。どれだけ苦労して作ったとしても、それが永遠には続かない」
「そうですね。でも、それは結局、その時代を生きる人たちが、ちゃんと責任を持って頑張るしかないことなんじゃないでしょうか。前の世代から受け継いだ大切なものを壊さないように、油断なく、子の世代、孫の世代が、次なる世代に受け継いでいく。そうするしか、ないんじゃないでしょうか?」
ベルはそう言ってから、ニッコリ笑みを浮かべた。その輝くような、まぶしい笑みを見て、ヴァレンティナは、ポツリ、と……。
「……あなた、なに?」
つぶやいた。それは、ベルに言った言葉というよりは、自分自身に対する問いかけのようで……。
「あなたも、ミーア・ルーナ・ティアムーンも、なんなの? あなたたちは変だわ。この世界から逸脱してる」
「してませんよ? そう思ったのだとしたら、あなたの世界に対する理解が間違っていただけ。この世界には酷いこともたくさんあるけど、それでも、壊したらもったいない、優しくて、温かくて、かけがえのないものだってあるんです」
堂々と胸を張り、ベルは言い放つ。ヴァレンティナを蹴り飛ばす一言を……。
その堂々たる態度を前に、ヴァレンティナは……ただ、沈黙を守るのみだった。
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