第三十六話 ミーアの違和感と遠き助言者
帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンの寝覚めは悪くない。
早寝早起き、毎日リズムよく生活する。それは、ミーアの怠惰を許さない、忠義のメイドアンヌの働きかけの賜物と言える。
そんなわけで、ふわああむっと、あくびとともに目覚めたミーアは、ベッドの上でのびのびーっと体を伸ばす。
そして、そこで最初の選択肢が訪れる。
このまま着替えるのか、あるいは朝風呂としゃれこむのか、である。
「ふむ……そうですわね」
ペタペタと服を触り、それから、腹をさすって空腹具合を確認! 我慢できないほどの空腹ではない。急いで着替えて食堂に行く必要はなし! となれば……。
「特に寝汗をかいているわけではありませんけれど……。今日は特別な日ですし」
などとつぶやいていると、アンヌが部屋に戻ってきた。
「あ、ミーアさま、おはようございます」
「おはよう、アンヌ。良い朝ですわね」
上機嫌に笑ってから、ミーアは言った。
「これから、浴場に向かいますわ。準備をお願いできるかしら?」
その問いかけに、アンヌは堂々と頷き、
「はい。すでに」
すちゃっと、ミーアの着替えセットを掲げる。ふわふわのタオルと着替え、ミーアお気に入りの洗髪薬に、体を洗うための石鹸。さらには、お肌に塗るための香油を入れたカバンである。
「あら、準備がいいですわね」
「今日は特別な日ですから、身を清めてから迎えたいのではないかと思いまして」
以心伝心、自分の気持ちを完全に理解していてくれる忠義人に満足げに頷くミーア。それから、まだ、ベッドで寝ているパトリシアを見て……。
「それでは、もう少ししたらパティを起こして、それから、朝風呂としゃれこみましょう」
そう、今日は特別な日。
今日は、特別初等部の生徒たちをセントノエル学園に迎える、大切な日なのだ。
生徒会での会議から早十五日。
聖女ラフィーナの号令は、早馬によって大陸各国に届けられた。
けれど、内容が内容だけに、反応は鈍かった。
貧しい民草の子どもや孤児たちに、高度な教育を施そうという考えには賛成できても、場所がセントノエル学園と聞くと、どうしても気後れしてしまうもの。
結果として、特別初等部の最初の生徒は六人ということになった。
「パティを含めて七人であれば、まぁ、ちょうどよいかもしれませんわね……」
「おはようございます、ミーアお姉さま」
っと、ミーアとアンヌの会話が聞こえたのか、パトリシアが起き出してきた。
眠たげに目元をこしこしこすりながら、ふわぁっとあくびをする。
「おはよう、パティ。寝汗を流しにいきますわよ。準備なさい」
「はい。わかりました」
こくり、と素直に頷いて、パトリシアが手際よく自分の着替えを用意し始める。それを見て、ミーアは、ふーむ、と唸ってしまう。
――なんか、この子、違和感があるのですわよね……。
首をひねりつつも、ミーアは、パトリシアを伴って大浴場へと向かう。
パトリシアに関して、疑問に思うことはいくつかあった。例えば、入浴がそうだ。
パトリシアは一人で服を脱ぎ、自分で体を洗うことができる。
最初こそ、アンヌの手を借りてはいたものの、今では自分一人でこなすことができている。唯一、できないのは髪を洗うことである。
アンヌがそっと動き出そうとするのを、ミーアは右手で制し、
「大丈夫ですわ、アンヌ。ここは、わたくしが……」
そう言うと、ミーアは上機嫌に洗髪薬を手のひらに出した。お気に入りの、馬印の洗髪薬を!
それを、しゃこしゃこと泡立ててから、パトリシアの髪につけて洗い始める。
ギュッと目を閉じ、体を固まらせるパトリシア。動きがないから、実に洗いやすい。
「うふふ、なんだか、馬の毛を洗っている感覚ですわね」
それは、馬術部での経験が生きたとも言えるが……ミーアが馬シャンの秘密に迫りつつある、ということでもあるのかもしれない!
ともあれ、パトリシアの髪を洗いつつ、ミーアはやっぱり思う。
――ううむ、やっぱりなんか変な気がしますわ。
パトリシアから感じる違和感。それは、ある種の『慣れ』と言ってもよいものだった。
服を脱ぎ、体を洗うこと。大貴族の令嬢であれば、これを自分ですることは珍しい。たいていは召使の手を借りてするからだ。
過去の経験上、ミーアは自分でいろいろできたほうがいいと思っているから、大体のことは自分一人でできるようにしているが、普通はこうはいかない。
にもかかわらず、パトリシアは、ごくごく普通にそれをする。貧民街で育ったベルのように、それをいとも簡単にして、戸惑う様子もない。
……ただ、最初の内、
「貴族の令嬢がこういったことをするのは変なのでは?」
と怪訝な顔をしていたが。
その反応もまた、考えてみるとおかしい。生まれながらの貴族のご令嬢は、なにが“それらしいのか”なんて考えたりしない。自然に、その振る舞いが身についているものである。
――となると、パティは生まれながらの貴族の令嬢ではないのではないかしら?
よくよく考えれば、ミーアは祖母のことを良く知らない。会ったこともないし、クラウジウス家という実家とも、一切交流はなかった。
だから、パトリシアの出自や、家庭環境がいまいち把握できずにいた。
――お父さまからも聞いたことありませんし、これは、ルードヴィッヒに調べてもらうのがいいかしら?
「ところで、ミーアお姉さま。今日、朝風呂に入るのは、特別初等部の他の生徒を迎える準備なのですか?」
湯船に浸かり、ほひゅーっと息を吐いていると、隣でパトリシアが尋ねてきた。
「ええ、そうですわ。しっかり身綺麗にしてお出迎えするのが、礼儀というものでしょう?」
「でも、初等部の学生は平民のはず。貴族の令嬢である私が、そんな風に迎えるのは変なことでは? そもそも、民に混じって勉学に励む必要がありますか?」
かすかに首を傾けるパトリシアに、ミーアは笑みを浮かべて、
「もちろんですわ。相手が誰であれ、身分に相応しい姿で出迎えるのが高貴なる者の在り方。それに民を知ることは、皇帝の妻となるには必要なことですわ」
「でも、私には、不要だと思いますが……」
怪訝そうな顔をするパトリシアに、ミーアは優しい笑みを浮かべておく。
「パティ、これも蛇になるためですわ。民草の気持ちを知ることは、とても大切なことなのですわよ……ね? 蛇として」
それを聞くと、パトリシアは、
「わかりました」
かくん、と素直に頷いた。
――ふぅむ、相変わらずこの子、蛇のことを話に出すと、すごく素直になりますわね。便利な感じもしますけれど、このままというのはさすがに良くないですわね。
それも、ミーアの悩みどころだった。
いつ“自分が蛇ではないこと”を、パトリシアに打ち明けたものか……。
――蛇の教育を受けていると思わせて、こっそりとまともな教育を施すという作戦は、今のところは上手くいってますけれど……。
このまま、だまし続けるわけにもいかない。タイミングを見て、本当のことを話す必要があるだろうが……。
――心配なのは、蛇になるためって言ったら、割となんでも納得しちゃうことなんですのよね……。
なんだかよくわからないが、パトリシアはかなり蛇になりたいらしい。その理由をきちんと把握しておかないと、足元をすくわれそうな気がする……。ミーアの直感が告げていた。
――あれ以降、変な夢は見てませんけれど、油断は大敵ですわ。ともかく、慎重に、すべきことをしていきませんと……。
はぁ……などと悩ましげなため息を吐くミーア。それから、ふと思う。
――ああ、それにしても、アベル。まだ帰ってこないのかしら……。最近、遠乗りにも行けておりませんし、心が沈みますわね……。
ちなみに、この時のミーアに、最も適切な助言ができたであろう人物はシュトリナだった。
もしも彼女に、パトリシアの状態のことを聞いたならば、こう教えてくれただろう。すなわち……。
「パトリシアは蛇に脅されて、言うことを聞かざるを得ない状況にあるのではないか?」 と。
ヴァレンティナのもとを訪れているシュトリナ・エトワ・イエロームーンが、再びセントノエルに戻ってくるまでには、もうしばらくの時間が必要だった。




