第三十五話 ミーア姫、密告される!
天牢塔――それは、ヴェールガ公国南方にひっそりと建てられた白い塔だ。
滑らかな手触りが特徴の白流花石を積み上げて作ったその塔は、極めて美しく、荘厳な監獄だった。
「ふわぁ……」
巨大な塔を見上げて、ベルはぽかーんと口を開けた。
「すごい……。ミーアお祖母さまの像とどっちが大きいだろう……?」
などと……ものすごーく! 不穏なことをつぶやいていたが、あいにくと、ミーアがそれを聞くことはなかった。かくして、ミーアの心の平穏は守られたのである。
……そうだろうか?
「なるほど。ここから脱出するのは、難しそうね」
一方で、冷静に塔を観察していたのは、シュトリナだった。塔の表面を細い指先で撫でて……それから、改めて頂上を見上げる。
「すごく高いし、掴まる場所もない。外からじゃあ狼使いでも、さすがに登れないだろうし……。ここを登れるとしたら、ディオン・アライアぐらいかな……あっ……」
そうつぶやいたシュトリナは、直後に、ハッとした顔をした。無意識につぶやいてしまった名前……それを聞かれてはしないか、と恐る恐るベルのほうを見る。っと、ニマニマ、笑ってるベルがいた!
「うふふ、やっぱり、リーナちゃん……」
「なっ、ちが、もう! ベルちゃん!」
ポカポカと手を振り回して向かってくるシュトリナを、笑顔で迎え撃つベル。
キャッキャとイチャつく令嬢たち。
そんな彼女たちを尻目に、リンシャは、ふん、っと鼻を鳴らした。
「逆に命を絶つのは簡単そうですけど」
「ああ、そうだね。ボクも最初は心配していたんだけどね……。飛び降りられるような窓がそもそもほとんどない上に、窓にも鉄格子が入ってるんだ」
リンシャの懸念に応えるように、アベルが指さした。その先には、確かに鉄格子がしっかりとはめられた窓があって……。
「あら、そうなんですね。てっきり、収監している人間が飛び降りるのを待つ施設なのかと思った」
そうして皮肉っぽい笑みを浮かべるリンシャである。没落した貴族令嬢にして、革命に走った兄を持つリンシャである。その視線は、極めてドライなものだった。
「なるほど。死罪にできない厄介な囚人が、自ら命を絶つのを待つための場所か。それは、あまりいい趣味の場所とは言えないな」
苦笑いを浮かべつつ、アベルは肩をすくめた。
「まぁ、実際のところ、ヴァレンティナ姉さまは、ラフィーナさまの手にも余る存在なんだろうけどね」
そんなことを話しつつ、一行は塔の入口へ。
そこで待っていたのは、
「おひさしぶりです。アベルさま」
「やあ、モニカ。元気にしていたかい?」
「はい。少々忙しくて、学園のほうには帰れていませんが……」
元風鴉にして、ラフィーナのメイドを務める女性、モニカ。
彼女は、巫女姫ヴァレンティナの捕縛以来、もろもろの後片づけや調整のために、国内を走り回っているらしい。今日は、アベル一行の面倒を見るため、この塔にて待機していてくれたのだ。
「相手は蛇の巫女姫ですから、万一のことがあってはならない、とラフィーナさまから同行するように仰せつかっております」
モニカは、静かに頭を下げると、そのまま、四人を塔の中へと誘った。
頑丈な入り口の扉を抜け、監視の兵の間を通り過ぎた先、延々と続く階段が見えた。
「こ……これを登るの?」
辟易した顔をするリンシャに、ベルが笑みを浮かべた。
「リンシャか……、さん、運動は今の内からしておかないと、腰とか膝とか、痛くなっちゃいますよ? 最近、よく体の節々が痛くなるって、嘆いてましたから」
「お、恐ろしいことを言うのはやめてください。ベルさま」
無邪気なベルに突き刺され、うぐぅ、っと胸元を押さえるリンシャだったが、すぐに、ふん、っと気合を入れて、階段を登り始めた。
長い階段を登る。一段、一段と、巫女姫が近付いてくるにつれて……シュトリナは、緊張に顔を強張らせた。
あの、蛇の廃城でのことを思い出す。
大切なもの……大切なお友だちを奪われた……あの時の恐怖が甦ってきて、思わず、手に力が入って……。その時だった。
「リーナちゃん……」
ふと横を見ると、ベルが真剣な顔で見つめていた。
「……なに? ベルちゃん」
ベルは、とてもとても……生真面目な口調で、言った。
「ヴァレンティナ、さんを、ボクは何と呼べばいいんでしょうか?」
「…………ん? えっと……」
「大伯母さま? でしょうか……。ヴァレンティナ大伯母さま、とか? いえ、それとも……」
その、いつもと変わらないのんきな様子に、シュトリナは思わず吹き出してしまった。それと同時に、肩に力が入りすぎていたことを自覚する。
そうだ。あの時、奪われたと思ったものはすぐそばにいる。自分の隣で微笑んでくれている。だから、なにも恐れることはない。
「うん、ありがとう。ベルちゃん……」
「? 別に、お礼を言われるようなことはなにも……」
と、首を傾げるベル。その手をさっと取って、シュトリナは笑った。
「一緒に、巫女姫を蹴り上げてやりましょう」
「ふふふ、そうですね。ミーアお祖母さま直伝のキックをお見舞いしてあげましょう」
それから、ベルは朗らかな顔で、
「あ、そうだ。リーナちゃん、知ってますか? 嫌な男の子は、こう、足と足の間を蹴り上げてやるといいみたいですよ?」
ぶん、ぶん、と足を振りながら、微笑むベル。一方、突如、はしたないことを言い出したベルに、かっちーんと固まるシュトリナである。
「えっと……。ベルちゃん、それ誰から聞いたの?」
「へ? もちろん、ミーアお祖母さまですけど……」
「……そっか。うん、わかった。ミーアさまには、しっかりと言っておかないとね……。ね、リンシャさん」
「ええ……そうですね。たぶん、レムノ王国での経験譚なんでしょうけど……変なことを教えないように、しっかりと言っておいたほうが……よさそうですね」
ものすごく生真面目な顔で頷くリンシャである。
こうして、ミーアお祖母さまに、リンシャとシュトリナから教育的指導が入ることが決定するのだった。
そんな賑やかなやり取りを交わしつつ、階段を登ることしばし。一行の目の前に重たい木の扉が現れた。
「準備はいいかな?」
振り返り、アベルが問う。リンシャが、ベルが頷き、最後にシュトリナが頷く。一呼吸の後、アベルは扉を開けた。
「失礼します。ヴァレンティナお姉さま」
「あら……アベル。また、来たのね」
中から聞こえてきたヴァレンティナの声には、ほんの少しの呆れが含まれていた。
「ふふふ、三日前まで、ゲインが来ていたのよ? あなたたち、いい加減に姉離れしないと……ゲインはどうせモテないからいいとしても、あなたは意中の女の子に逃げられてしまうわよ?」
かくて、一行は、再び巫女姫と対峙することになった。
その復讐の帰結が、どこに行き着くのか、今の時点で知る者は一人もいなかった。