第二十六話 モリベル
「なるほど。確かに、これ以上、世界の仕組みを知っても、あまり意味があることではないかもしれないわ」
黙って聞いていたラフィーナが、そこで口を開いた。
「どういうことですか? ラフィーナさま」
不思議そうに首を傾げるクロエに、ラフィーナは優しい笑みを向ける。
「簡単なことよ。秘されたことには、秘されるだけの意味がある。神秘という言葉があるけれど、それを解き明かすのは、それほど良いこととは思えないもの。だって、それは神によって秘されたことでしょう? 人には、知らぬほうが良いことだってある」
紅茶のカップを片手にとり、一口。それから、ラフィーナは続ける。
「我らの神は、人が平穏に生きるのに必要な知識を与えたもうた。この地を治める道徳、倫理のすべては、神聖典に書かれているの。なぜ、人を殺してはいけないのか? それは、神がそれを禁じるから。なぜ、他人の物を盗んではいけないのか? それは、そのように神聖典に書かれているから」
すべての人に共有された動かぬルールがある。それに照らし合わせればこそ、貴族も民も納得するのだ。
「神からいただいた神聖典により、私たちは、そのように諭せるし、その秩序を根拠にして悪事を咎め、裁くことができる。神聖典という、誰もが認める権威ある書に、それが明文化されている意味は、そこにある。そして、それは人が平和に暮らすために必要な知恵だからこそ、人に明かされている」
それから、ラフィーナは少しだけ表情を硬くする。
「逆に言えば……人の分を超えた知識、人を歪め、悪へと走らせる知識というのもあるのではないかしら? 例えば、人をだます方法とか、国を崩す方法とか、ね。その最たるものが、恐らくは『地を這うものの書』でしょう」
どうやって国を崩すのか、わからなければ、普通でいられたものを……そのやり方を知ってしまったがゆえに、革命に走る者がいる。
救われるべき弱者を、悪へと変えてしまう知識、それこそが地を這うものの書の誘惑。それは確かに、知るべきではない知識と言えるだろう。
「だから、分を超えたことを話さないほうがいい。ミーアさんが言っているのは、そういうことではないかしら?」
涼やかなラフィーナの瞳が、ミーアのほうを見る。
聞かれたら困るから、聞かれても困らないことに議論の範囲を絞る……などという、ちょっぴりアレなたくらみに、極めて壮大な解説をつけられてしまったミーアは、実に神妙な顔で頷いて。
「……ええ、まぁ、そんな感じですわ」
いけしゃあしゃあと言ってのけた!
「なるほど。確かに、その通りかもしれませんね。未来のこととかわかってしまったら、私なんか、サボってしまうかもしれません」
ちょっぴり冗談めかして笑ったのは、滅多なことではサボらなそうなティオーナであった。そんな主の発言に、うんうん、っと元気よく頷くリオラ。
「私も、そう、思う、です。どこに獲物がいるかわかったら、探すの、面倒なくていい」
無邪気な彼女の発言に、その場のみなが明るい笑みを浮かべた。
にぎやかな生徒会の雰囲気に、微笑ましげな表情を浮かべて、ラフィーナは言った。
「そうね。神秘や、未来の知識などというものを知っていて、なお、謙虚に、有益に使えるのは……それこそミーアさんぐらいじゃないかしら?」
それは……聖女ラフィーナの判断力を、女帝ミーアの判断力が上回った決定的な瞬間であった。
帝国の叡智、女帝ミーアは自身の怠惰を知り抜いているのだ!
「ん? 待てよ? ということは、もしかすると、ミーアが大飢饉が起きると言って備蓄を進めていたのは、その未来の知識によるものなのか……?」
と、小首を傾げるシオンだったが、すぐさまクロエが反論する。
「いいえ。ミーアさまが食糧の備蓄を始めたのは、ベルさまが現れる前ではないかと思いますが……」
「はい、もちろんです。ボクが来るより前に、ミーアお祖母さまは備蓄を始めています」
静かに手を当て、厳かな口調でベルが言った。
「むしろ、いろいろな未来のことを教えることは、良くないことであると、諫められてしまいました。過去のミーアお祖母さま自身にもあまり教えないように、と言われています。だからこそ、ミーアお祖母さまは、帝国の叡智と呼ばれているんだと、ボクは思いました」
モリモリ盛る。盛りに盛るベルである。モリベルである。
「そう。やはり、ミーアさんでもそう考えるのね。自分自身をも厳しく諫めるだなんて、さすがね……」
ラフィーナは、感心した様子でつぶやく。
「ということは、ベル嬢からこれから先に起きることを教えてもらうのはなしにしたほうがいい、ということか。だけど、いいのかな? アベルとミーアとのことは……」
「あ、はい。大丈夫です。それは教えても大丈夫な情報なので」
憧れの人、シオンの言葉に、嬉しそうに頷いてから、ベルは説明を続ける。
てっきり、未来ですでに明かされている情報が云々、という話をするのかと思えば……。
「ボクのお母さんが産まれなくなってしまうと困るので……ボクが」
とんだちゃっかり者だった!
けれど、そのことにツッコミを入れる者はなく……。みなの顔に浮かぶのは優しい理解の色だった。もともとの性格に加え、ミーアの孫娘という地位を得たベルは、名実ともにみなに愛され、可愛がられる立ち位置を獲得していた。
とんだちゃっかり者である!
ベルの持つ能天気な雰囲気で、一気にその場が和やかなものへと変わっていく。
これで、アベルの元気が、少しでもでればいいのに……っと、ミーアが視線を転じると……、アベルは変わらずに硬い表情をしていた。
「そうか……。では、やはり、姉上が殺したということには、変わりがないのだな」
「アベル……?」
心配になって声をかけるミーアだが、安心させるようにアベルは頷いてみせて……。
「ベル嬢、少しいいだろうか?」
アベルは、思いのほか真剣な顔で、ベルに声をかけた。対して、ベルは、
「うふふ、アベルお祖父さま、くすぐったいです。呼び捨てでいいですよ」
無邪気な笑みを浮かべる。それに気勢を削がれたのか、アベルは虚を突かれたような顔をして、
「ああ、そうか……。うん、わかった。それならば、ベル、一つお願いがあるんだが、後で少し付き合ってもらえないだろうか?」
「はて? お願い、ですか?」
きょとん、と首を傾げるベルに、アベルは言った。
「ああ。ボクの姉……ヴァレンティナのことだ」
「あら……お義姉さまの?」
それは聞き捨てならん、とミーアがしゃしゃり出てこようとするが……。
「ああ、別に大したことじゃないんだ。ただ、ボクもミーアに倣おうと思ってね」
「はて、わたくしに……?」
「前に君がシオンにやったことさ。わからずやの姉を蹴り上げてやろうと思うんだけど、ボクがそれをするのはどうかと思うから、孫娘に代わってもらおうというわけさ」
そうして、アベルは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
その顔を見て、ミーアは、ふっと心が軽くなったように感じた。
その笑みは、実に数か月ぶりに見る、少年らしい幼い笑みだったからだ。