第十六話 襲来っ!
セントノエル学園女子寮の廊下を、少女が歩いていく。
軽やかな足取り、ほのかに吹いた風にしっとりと湿った髪がかすかに揺れる。お風呂ですっかり汚れを落としたからだろうか、艶やかな髪は、揺れるたびにほのかに輝いて見えた。
すべすべとした頬は、ほんのりと朱色に染まり、ちょっぴり色っぽく……どこか視点の定まらない、ぽやっとした瞳は、少女に浮世離れした魅力を付け加えているかのようだった。
小さく愛らしい唇を薄く開き、ふぅっと悩ましげなため息を吐いた少女、それは――なんとミーアであった!
そうなのだ、これはミーアの描写なのである。
頭から、モクモク湯気を出しつつ、うんうん悩ましげな唸り声をあげる、ミーアの描写なのである。
大陸を代表する作家、エリス・リトシュタイン女史のミーア女帝伝風の、ピリリと誇張の効いた描写でミーアを書くと、このようになるのである。
これが、後の世の叙述トリックのもとになったとかならなかったとかいう噂があるが、それはともかく……。まぁ、そんな湯上りヒロインの風格を身にまとったミーアは、今まさに思考に没頭していた。
「あの子は、やはりパトリシアお祖母さまと考えるべきなのでしょうね」
「でも……そんなこと、ルードヴィッヒ先生は一言も……。本当にそんなこと、あり得るんでしょうか?」
首を傾げるベルに、ミーアは指を振り振り、偉そうに言う。
「いいですこと、ベル。あなたも、皇女ならばよく覚えておくとよいですわ。パトリシアがお祖母さまであると考えて、実際には違った場合と、パトリシアお祖母さまだと思っていなくて、実際にはお祖母さまであった場合……。想定と実際とが違った場合、どちらの被害が大きいのか考えるのがとても大切ですわ」
先ほどパトリシアに「ミーア先生」と呼ばれたからだろうか。すっかり先生モードになったミーアは、滔々と小心者の哲学を語る。
「最悪に備えていて、最悪が来ない。それならば、自身の臆病を笑うことができるでしょう。けれど、備えなく最悪が訪れた時にはとても笑えないものですわ」
飢饉に備えて、食材が余ったら、祭りを開いてみんなで食っちまおうぜ! というのがミーアの基本戦略である。それをきっちり孫娘に叩き込む。
「なるほど……最悪に備える……」
「そうですわ。食の備えあれば憂胃なしとも言いますし……まぁ、もっとも転んだ先にキノコということわざもございますから、実際には臨機応変さが求められますけれど……」
それから、腕組みしつつ続ける。
「しかし、それよりなにより、蛇の教育を受けた子どもと出会ったのであれば、みすみす何もせずに他者に預けるだけというのも寝覚めが悪いですわ。気分よく美味しい食事を食べるためにも、ここは、わたくしがきっちりと先生として教育を施してあげて……」
などと鼻息荒く語るミーア。「ミーア先生」と呼ばれるのが、思いのほか気持ちよかったミーアなのであった。
「それが、ミーアお祖母さまのやり方……」
ベルは感心した様子でつぶやく。
「ええ。そうですわ。大事なのはきちんと備えることと、物量ですわ。だから、ラフィーナさまへの説明も、行き当たりばったりでなどということは言いませんわ。なんと説明するか、きちんと“言い訳”を考えてから行きますわよ。あなたのことも含めて、考えることがたくさんありますし……」
っと、そこでベルが「はいっ!」と元気よく手を挙げた。
「ミーアお祖母さま、質問があります」
「あら、なにかしら? なにを聞いていただいても構いませんわよ?」
上機嫌で笑うミーアに、ベルは、生真面目な顔で言った。
「準備が整う前に相手が襲来してきたら、どうなるんでしょう?」
「……はぇ?」
ベルが指さす先、ミーアの部屋の前には、ちょうど今来たと思しき、ラフィーナが立っていた。ベルのほうを見て、ポカン、と口を開けたラフィーナだったが、すぐにミーアに視線を戻した。
――ぐぬ……こ、これは困りましたわ。どう説明したものかしら? ベルのことは、まぁ、最悪、ベルに自分で説明させるとしても、パトリシアのことをどう説明したものかしら? 蛇の教育を受けているだけに、下手に説明すれば、わたくしにも危険が及びそうな気がしますわね。うぬぬ……。
フロリスト・ミーアの頭から、再び湯けむりがモクモク吹き出しそうになったところで……。
「ミーアさん……ごめんなさい」
ラフィーナが深々と頭を下げた。
ミーアはとりあえず、ラフィーナの部屋へと移動することにする。
「ミーアお姉さま、ボクは……」
「ああ、そうですわね……」
刹那の黙考。
先ほどの話を聞く限り、ベルは、未来の世界でルードヴィッヒから、きちんと教えを受けているらしい。その意味を理解しているのかはわからないが、少なくとも、きちんと記憶するぐらいには、真面目に話を聞いてきたようだ。
ゆえに、連れていけば、それなりに役に立つ……かもしれないが……。
「いいえ、ベルはアンヌと一緒に、パトリシアの面倒を見ていてもらえるかしら?」
ミーア、決断する。
正直なところ、ベルに自分自身のことを説明させたほうが楽だと思わないでもないのだが……。
――あるいは、上手く説明するかもしれませんけれど……この子は、なにかやらかす気がいたしますわ。こう、具体的には……説明してる最中に『ラフィーナおばさま』とか口走ったり……。
それよりは、むしろ、自分がまとめて説明したほうが確実だろう、とミーアは判断する。
幸い、なんだか、ラフィーナは、すまなそうな顔をしている。多少のことならば、押し切れるだろう、との計算もあった。
――すべきことの整理をする必要がありますわね……。まず、ベルのことの説明と、もう一度、学園に通えるようにお願いして。それ以上に難しいのはパトリシアの説明ですわね。わたくしの祖母であると、素直に話すべきか……。ううむ……。甘い物が欲しいですわ。明らかに、甘くて美味しいものが不足しておりますわ。湖の状態がおさまったら、必ず、あまぁい物を食べてやりますわ! 絶対ですわ!
などと息巻くミーアが、ちょっぴり嬉しい誤算と直面するのは、もう少し後のことであった。