第九話 涙目三日月蹴り(ティアムーンサルトキック)炸裂……せず
「ばっ、ばば、バルバラさん……なぜここに?」
確か、こいつは、ヴェールガに囚われていたはず……っ! と、ミーアは驚愕に声を震わせる。対して、バルバラは勝ち誇ったような顔で答えた。
「ええ、多少の苦労はありましたが、この程度の風ならば船で渡ってこられましたよ。腕の良い船乗りに心当たりがあったもので。それに、逆に、こういう時のほうが警備というのは緩むもの。『こんな天気の日には島にやってこられないだろう?』『まさか、このタイミングで脱獄なんかしないだろう?』そうした認識は油断を生むもの。むしろ、それを成すに相応しくないタイミングというのが、最適のタイミングであることは多いのです」
「なっ、なるほど……」
ミーア、思わず、唸ってしまう。
――これは、勉強になりますわ。今度、地下牢に入れられた時には試してみよう。
心のメモ帳にしっかりと記録するミーアである。どんな時にも革命されマインドを忘れない、地下牢系皇女の鑑である。
「っと、そうではありませんわ。わたくしが問いたいのは、なにをしにここに来たのか、ということですわ」
「これは異なことを……。帝国の叡智らしからぬ不見識。言うまでもないことでしょう? もちろん、我が想いを遂げるためですよ」
そう言い、バルバラはわずかに視線を転じる。
その視線を追い、ミーアはようやく気付く。
バルバラの右手が捕まえている子どもの存在に。
腕を後ろ手にひねり上げられて、顔を苦悶に歪めた少女、それは、つい先ほどまでミーアのそばにいたはずのパトリシアで……。さらに、バルバラの手にはキラリと光る刃物があって……。
「ふふふ、あなたとシュトリナお嬢さまにはとっても痛い目を見ていただかないと、私の心は穏やかではいられないのです。ついでに聖女ラフィーナもこの手にかけられれば上々。できることなら、この大陸に巣食う貴族のクズどもを、根こそぎ一掃できれば言うことはないのですが……」
どこか陶然とした顔で、バルバラは言った。
「まぁ、そうした大それたことは、他の者たちに任せましょうか。とりあえずはあなたですよ、帝国の叡智。さぁ、私とともに来ていただきましょうか。ミーア姫殿下」
そうして、パトリシアの首筋に刃を突き付ける。
「ちょっ、正気ですの? その子は蛇ですのよ!? あなた、仲間を殺そうというんですの?」
「はて? この子が? 仲間?」
バルバラは首を傾げ、ニッコリと笑みを浮かべた。
「なるほど。それはとても良い言い訳ですが……。はたして、それで、貴女さまのお仲間が納得してくれるでしょうか? 帝国の叡智たる者が幼い子どもを見捨てる? しかも、その子どもが蛇の一味だから、殺されても仕方ないという言い分で?」
――くっ! そうでしたわね、蛇は、そういうろくでもない連中でしたわ。
ミーア、思わず舌打ちする。
仮に、あの子が蛇であったとしても、目的を達成するためには容赦なく切り捨てる。ミーアが無視して見捨てたりすれば、その事実を用いて仲間たちとの間に亀裂を作り出す。
決してあの子が蛇であったことなど、認めないだろう。
「さて、ご理解いただけたなら、大人しくついてきていただきましょうか?」
勝利を確信した顔で、バルバラが言う。
――くう、ダメですわ。ここは言うとおりにするしか……。
と、そこでミーアは思う。
――いえ……まだですわ。手がないわけではありませんわ……。わたくしには、対シオン用に鍛え上げた……ハイキックがありますわ!
ミーアは、頭の中で、バルバラの手の中の刃物を蹴り上げる自分の姿を思い描く。
妄想の中のミーアは、スカートを跳ね上げ、綺麗に弧を描くキックを放っていた。バルバラの手の中の刃物が、ぐるんぐるん回りながら、宙に舞っている姿を見たミーアは、自信を深める。
――そうですわ。思えば……あの蛇の刺客、ジェムを倒したのだって、わたくしのこの足でしたわ! 相手が狼使いやディオンさんだったならまだしも、バルバラさん相手ならば……。
「早くしていただけませんか? そうでないと……」
「あぅっ!」
腕をひねり上げられ、パトリシアが悲鳴を上げた。目をギュッと閉じて、唇を噛みしめる。
「ああ、いけませんわ。淑女が子どもに乱暴を働くものではありませんわ」
ミーアは、ひどく落ちついた声で言った。その落ちつきは、さながら、武術を習得した達人のもののようだった。
それからミーアは、堂々と、バルバラのほうに近づいていき……。間合いを計りながら、近づいていき!
「さ、どこに行くつもりなのかしら?」
あと、五歩……四歩、三、二…………今っ!
瞬間、ミーアが仕掛ける。
「ふひゃぁああああああっ!」
勇ましい雄叫びと同時、ミーアは思い切り足を振り上げた。
乗馬とダンスで鍛え上げた、ミーアの力強い脚は、鞭のようにしなりながら、三日月のような軌道を描き、見事に、見事に――空を切った!
さらに、びょうっと強風が吹く。重心が後ろに傾いたミーアの体は、もろに、その風を受けて、勢いよく後ろに倒れて……。
「ふひゃああああああっ!」
勇ましい悲鳴を上げるミーアの体のすぐ上を、なにかがものすごい勢いで通り過ぎていく。それは、ギラリと鋭い光を放つ刃……。その軌道は、ついさっきまでミーアの体があったところだった。
直後、とすん、とお尻から着地したミーアは、
「ふぎゃんっ!」
涙目になりつつ、いててて、っとお尻をさすり、さすり……一秒、二秒……三秒の後、背中につめたぁい汗が、ぶわわわっと吹き出した!
一瞬前の状況が理解できてしまったためだ。
――あ、ああ、あっぶなぁっ! あっぶなぁあっ! 今、避けてなかったら、あ、あ、あぶなぁああっ!
口をアワアワさせるミーアに、バルバラは小さく首を傾げた。
「あら、外れましたか」
「あ、あ、あなた、今、大人しくついて来いって……」
「それはそうでしょう? 正直に、大人しく死んでくださいと言ったら、死んでくださるのですか?」
「ふむ……まぁ、そう言われれば……って、そうではありませんわっ!」
一瞬、納得しかけたミーアであったが、すぐにブンブンッと首を振る。
――こ、こ、これは、まずいですわ!
味方を失っているからだろうか。バルバラはひどく短絡的で、攻撃的で、それゆえに脅威だった。
からめ手ではなく、直接的な暴力で来られた場合、ミーアはまったくの無力だからだ。
達人の落ち着きとか錯覚だった! 相手の武器を蹴り上げる? そんなのできるわけがない!
「ふふ、まぁいいでしょう。どの道、その体勢では次は避けられないでしょうし……。一瞬、命を長らえたところで、なにほどのこともなし」
そうして、ナイフを振り上げるバルバラ。その顔は勝利の確信に歪んでいた。
けれど……それは、大きな間違いだった。
ミーアの上げた雄叫びは、作り出した時間は、確実に届いていたのだ。
「では、大人しく死んでくださいね。ミーア姫殿下」
ギラリと輝くは、刃の輝き。
「ひぃいいいいっ!」
振り下ろされる冷たい殺意に、ミーアは、なすすべもなく目を閉じる。がっ!
「ミーアっ!」
直後に聞こえた声に、ミーアは慌てて目を開け……見開く!
「あっ、アベルっ!」
自身の前に現れた、力強い背中に、ミーアは思わず黄色い声を上げるのだった。
暴漢の持つナイフを蹴り上げる妄想って、しますよね?
で、実際に試してみて……気づくのです。思ったより、足上がらないな、と……。
子ども時代から体がかたい作者です。