第六話 天邪鬼な忠臣
セントノエル学園女子寮、二階の、階段から数えて三つ目の部屋。
他の生徒の部屋と変わらぬ造りのその部屋が、学園の支配者の住まう場所であるということは、女子寮に住む者ならば誰しもが心得ていることだ。
すなわち、そここそが、ラフィーナ・オルカ・ヴェールガの部屋なのである。
そのドアの前に立つ少女……リンシャは小さく息を吐く。
――未だに、ここに来るのは慣れないな……。
そんなことを思いながら、そっとドアをノックする。
「失礼いたします。ラフィーナさま」
「あら、リンシャさん。どうぞ。入って」
許可を得て、ドアを開ける。と、出迎えに出てきたラフィーナは、ちょっぴり疲れた顔をしていた。目の下には、うっすらとくまができている。
――それも無理ないか、な……。
リンシャは、ここ数日間の目の回るような忙しさを思い出し、小さくため息を吐いた。
神聖ヴェールガ公国を襲った春の嵐、その対応のため、ラフィーナは寝る間を惜しんで働いていた。
痛かったのは、ラフィーナの補佐をしてくれていたモニカが、島から出ていたタイミングで嵐が来てしまったことだった。
毎年、この時期は少し天候が不安定になるとはいえ、今年のような嵐は滅多にあることではなく……イレギュラーな事態に、島の警備を司るサンテリらも手一杯になっていた。
――生徒会長はミーアさまが担っているとはいえ、島の細々したことはやっぱりヴェールガ国がする必要があるんだろうから、大変なんだろうな。
そんなことを思っていると……、
「ごめんなさいね、こき使ってしまって。毎年こうではないのだけど……」
すまなそうに言うラフィーナに、リンシャは思わず苦笑いを浮かべる。
「どうかしら? もう、学園での仕事には、慣れたかしら?」
疲れを誤魔化すように笑みを浮かべて、ラフィーナが言った。
「はい。おかげさまで」
短く答えるリンシャに、ラフィーナは気遣うような顔で、
「無理を……。いえ、なんでもないわ」
なにかを言いかけて、すぐに首を振る。
それを見たリンシャは、なるほど、ラフィーナは確かに高慢な貴族ではない、と改めて思わされた。
“無理をしていないか?”
この問いは、相手を気遣う言葉のようでいて、時に残酷さを帯びる。
傷ついた人にそう問いかけることで、却って相手を追い詰めてしまうことだってある。
なぜなら、無理をしてないわけがないからだ。
傷つき、それでも前を向いて生きていくしかない人は、無理をして平静を装うしかない。そんな人には「無理をしてるか?」などと、当たり前のことを聞くべきではないのだ。
だから、ラフィーナは言葉を途中で止めたのだ。
だけど……。
「別に無理はしていません。こうして学園で学ぶこともできていますし。御心配には及びません」
リンシャは勝気な笑みを浮かべて言った。
――だって、自分は、別に傷ついてなどいないのだから。
それは、突然のことだった。
レムノ王国に帰郷し、元の革命派の仲間たちに挨拶をし、ついでに、第三国にいる兄ランベールの様子を見て(ちなみに、ランベールは、あの後、中央正教会が運営する学校で教師をしていた。文学の教師らしいが……楽しそうに仕事をしていた)それから、セントノエルに帰ってきた。
――あの子、私がいない間に、ちゃんと勉強していたかしら? やってるわけないわね。やれやれ、また口うるさく言ってやらないと……。
そんなことを思いながら戻ってきたリンシャにミーアは言った。
「ごめんなさい。リンシャさん。ベルのことなのですけど……」
そうして、告げられた事実。
あの子が……消えてしまったということ。
消えた……そんな風に、婉曲的に言うけれど、リンシャはそれで悟れないほど、鈍くはなかった。
つまり、あの子は……ベルは、死んでしまったのだ。
自分になにも言わずに、あっさりと、死んでしまったのだ。
それがわかって、リンシャは……ひどく腹が立った。
別に悲しくはなかった。
まったく悲しくもなんともなかったけど、でも、「せっかく助けてやったのに、勝手に死ぬなんて……」と思ったら、悔しくて涙が出た。
悲しくもないし、傷ついてもいないけれど、ただ悔しかった。
……涙の理由は、それだけだ。
「あの、それでね、リンシャさん。セントノエルに残るつもりはあるかしら?」
「……どういう、意味ですか?」
つい、低い声が出てしまったのは、腹立たしさに声が震えるのを堪えるためだ。
「あなたは、ベルにとっても良くしてくれた。そんな方を、こちらの勝手で解雇するのも気が引けますし、セントノエルでの学びは、あなたの役に立つと思いますの。だから、ラフィーナさまに相談させていただいたところ、セントノエルでラフィーナさまのお手伝いをしながら、学びを続けるという道をご提案いただきましたの」
「ラフィーナさまの、お手伝い?」
「そうですわ。あなたも覚えているでしょう、バルバラさんのこと、ジェムという男のこと」
忘れるはずもない。一人は自分を殴り倒した女であり、もう一人は、自分の兄を惑わした道化師のような男だ。
「あのような者たちが、わたくしたちの周りには潜んでおりますの。だから、リンシャさんのように信頼がおける方というのは、とても貴重なのですわ」
ミーアは、そう言うけれど、それは紛れもない心遣いだった。
レムノ王国革命派の首謀者の妹……。その肩書きは、リンシャ自身も自覚する通り、とても重い。これから先、レムノ王国で暮らすのは、息苦しいことだろう。かといって、他国で生きられるほど、なにかの才能に恵まれているわけでもない。
セントノエルで学び、ラフィーナの従者として働けば、将来的には、正式にラフィーナの従者になる道もあるかもしれない。あるいは、セントノエルで得た知識を用いて商売を始めることもできるだろう。
それに、ここで断るのは、自分の中に消しようのない感傷があることを認めるような気がして……あの子の死に傷ついていることを認めるような気がしてしまって……。
だから、リンシャはその申し出を受けた。
「ありがとうございます。とても助かります」
それは、自分の利に繋がることだから。断ることはおかしなことだから。
別に自分は、あの子の死に、傷つきもしてなければ、悲しんでもいないのだから。
そうして、ラフィーナのもとで働くようになって……リンシャはちょっぴり暇になった。
ベルも面倒がかからない子ではあったけど、それ以上に、仕事の量は減った。
それは、リンシャにしっかりと勉強をしてもらおうという、ラフィーナやミーアの心遣いの結果ではあったのだが、むしろ、リンシャとしては手持無沙汰に感じられた。
ぽっかりと……胸のどこかに穴が開いているみたいな……そんな感じがした。
だからここ数日の、嵐の対応に追われている時間は、どちらかというと、リンシャにとってはありがたい時間だった。
「それで、どうかしたかしら?」
一瞬、物思いにふけりかけた時、ラフィーナの問いかける声が聞こえた。
「あ、ええと、モニカさんから連絡です。バルバラが、牢を逃げ出した、と……」
その驚くべき情報に、ぴくんっと、ラフィーナの肩が揺れる。
「……それは、誰かの手引きによるものかしら?」
そっと腕組みして、ラフィーナがつぶやく。
「報告書にはなにも……ただ、十日前のことのようです。嵐のせいで、連絡が遅れたとか……」
「そう……」
ラフィーナは静かにため息を吐いてから、
「巫女姫……ヴァレンティナ姫と接触を図るかもしれないわね。警備を強化する必要があるかしら……」
小さく首を振るのだった。
報告を終えたリンシャは自室へと向かって歩き始めた。
「明日は、算術があったかな……。商売をするなら、必須だから頑張らなくちゃね」
そう言えば、あの子は算術が嫌いだったな……などと思い出し、ついつい苦笑してしまう。
「まぁ、あの勉強嫌いに算術を教えなくって良くなっただけ、楽になったかな」
別に寂しいとは思わない。ただ、まぁ、ちょっとだけ張り合いがなくなったな、とは思うけれど……。
「ああ、久しぶりに思い出したら、なんか、やっぱりムカついてくるな……」
元貴族のご令嬢らしくない言葉が、ついつい口からこぼれてしまう。
でも、それも仕方ないこと。
銀貨でお礼なんかするな、と言ってやったのに、結局は、ベルのおかげでセントノエルで勉強を続けることができるようになったのだ。それが、あの子の置き土産のように感じられて、お礼のように感じられて……。それが、無性に腹が立って……。
「我ながら、なにに怒ってるんだろう? 関係ないのに」
大した付き合いじゃないのだ。ベルとは、一年ちょっとの付き合いで。
ただ、ミーアから願われたから、従者として付き合っていただけのこと。自分の忠誠心なんか、せいぜい、銀貨数枚分に過ぎない……取るに足りないもので……。
そうして、ふと顔を上げた時……リンシャは息を呑んだ。
目の前、ちょうどドアが開くのが見えて……そこがイエロームーン公爵家のご令嬢の部屋だということは知っていて……。
だから、そこからあの子の友だちのシュトリナが出てきても、別に不思議はなくって……。ただ、友だちが消えて以来、あまり笑わなくなった彼女が、やけに楽しそうにしているのがなんだか、ちょっとだけ気になって……。
なにげなく、そちらを見ていたら……そうしたら見えたから。
あの、懐かしい少女が出てくるのが……見えたから!
「あ……あ……」
声が、震える。
でも、別に嬉しくなんかない。
自然と、足が走り出す。
でも、こいつと再会したことなんか、なんとも思っていない。
だから、そう……、これはきっとムカついただけ。
「あっ、り、リンシャ母さま……、じゃない、リンシャさん! ひゃあっ!?」
勝手にいなくなっておきながら、能天気な声で、あっけらかんとそんなことを言うから……ただ腹が立っただけ。
だから、腹いせ代わりに、リンシャはベルに飛びついて、
「あんた、ほんっとに、ふっざけんじゃないわよ! なに勝手にいなくなってんのよ! 私がどれだけ心配したとっ! どれだけっ、どれだけっ……!」
言葉に詰まる。
目の前が滲む。
涙が溢れる。
構うものか、とリンシャは、ずっと胸に溜まっていたモヤモヤをベルにぶつけてやるのだった。