プロローグ せんさい()な姫の怖い夢
さて……、ミーアの前に、再びベルが現れる日。その少し前の出来事……。
ミーアは……走っていた!
「はっ……、はっ、はっ……」
荒れた地面を蹴って、懸命に走る。
その身を守る者はなく、付き従うメイドの姿もなく。
ただ一人、ミーアは逃亡を続けていた。
振り返れば、後ろから剣を持った男たちが追いかけてきていた。
「もう逃げられんぞ! 観念しろ!」
「子どもの仇だ!」
そう言われたからといって、足を止めるわけにもいかない。
懸命に、懸命に、前に向かって走っていく。
息が切れる。
胸が、足が痛い。
森の木の枝でついた擦り傷が、じくりじくりと痛みを訴えていた。
そんな逃走劇が、長く続くはずもなく……やがて、足が止まり……後ろから激しい足音が響いてきて……。
「覚悟しろっ!」
「ひぃやああああっ!」
悲鳴とともに、ミーアは、ベッドの上ではね起きた。
優雅な、お昼寝には程遠い目覚めだった。
「ミーアさま! どうかなさいましたか?」
驚いた顔で歩み寄ってくるアンヌに、ミーアは、ほうっと安堵の息を吐いた。
「ああ……アンヌ……」
そのまま脱力。柔らかいベッドに倒れこみつつ、つぶやく。
「ですわよね……。夢、ですわよね……」
「夢……あっ……」
ミーアのつぶやきを聞いて、アンヌは口もとを押さえる。
「もしかして、あの蛇の居城でのことを夢で……?」
などと、顔を曇らせるアンヌに、ミーアは小さく首を振った。
「ああ、いえ……そうではありませんわ」
慌てて否定するミーア、であるのだが……アンヌの顔が晴れることはなかった。ミーアに向ける視線は、依然として心配そうなものだった。
――うーん、これは困りましたわね……。
ミーアは、思わず考え込んでしまう。説明するのは難しい。なぜなら、今しがた見た悪夢は混沌の蛇のことではない。革命期の夢なのだから。
――しかし、実に不可思議ですわね。なぜ、また、革命軍に捕まる夢を見るようになってしまったのか……。
あの時の、蛇の居城でのことを悪夢で見るならばわからないではない。確かに、ミーアにとって、あの出来事はショックではあったのだ。何日間か、食事が美味しくなくなったぐらいには……。
けれど、それも今は昔のこと。
元よりベルの正体を知っているミーアである。食欲をなくしているようじゃ、後に生まれてくるベルに悪影響があるかもしれない。
『むしろ、ベルの分までたくさん食べてあげなければいけませんわ!』
などと言いつつ、ケーキを二倍食べようとしたりして……。さすがに、アンヌから諫言を呈されてしまったりして……。
主君の不興を買うことを恐れず、勇気をもって忠言する、忠臣の鑑アンヌである。
まぁ、そんなこんなでミーアの悪だくみは潰されたわけだが、ともかく、ミーアは、ベルのことでそれなりにショックを受けてはいたのだ。悪夢の一つや二つ、見ても不思議ではないかもしれない。
けれど、最近見る悪夢は……違うのだ。もうだいぶ遠いことになっているはずの、革命の頃の悪夢を、また、見るようになっているのだ。
しかも、記憶にはない、別の帝国崩壊の悪夢まで見る始末。
これは、一体どういうことなのか……。
「やっぱり、革命の時期が近付いているからかしら……?」
前の時間軸においては、すでに、帝国の落日は始まっている時期だった。
ミーアは今度の冬で十六歳になる。とすれば、革命軍の手に落ちるまで、あと二年もないわけで……。
「ナーバスになってるのかしら……。わたくしも繊細な心の持ち主ですし……。気を紛らわすために、なにか甘いものでも食べたほうがいいんじゃないかしら……健康のためにも」
小心者たるミーアは、自身の心のケアの仕方をよく知っているのだ。
そうして、元気よくベッドから起き上がったミーアは、食堂へと向かった。
「あら……?」
食堂に入ってすぐ、ミーアは見知った人物を見つけた。
帝国四大公爵家の一角、イエロームーン家の令嬢、シュトリナ・エトワ・イエロームーンが、ぼんやりと一人で佇んでいた。
どこか寂しげなその顔……。その顔……の口元にクリームを見つけて、ミーアは目を見開いた。
さらに、よく見れば、シュトリナの目の前には、ケーキのお皿が三皿、重ねられている!
――悲しさを紛らわすためには、甘いものを食べる……。これは確かな方法ですけれど……、同時にそれは両刃の剣ですわ。食べ過ぎれば、どうなるのか……。
ミーアはそっとシュトリナのそばに近づき、その二の腕を摘まんだ!
「ひゃんっ! なっ、み、ミーアさま……?」
突然のことに、ぴょこんっと飛び上がるシュトリナと驚愕に固まるミーア。それからミーアは、自らの二の腕を摘まみつつ、しきりに首を傾げる。
「おかしいですわ……どうなっているのかしら……? まさか、構造が違うとでもいうのかしら?」
などとつぶやきつつ、ミーアは改めてシュトリナの顔を見つめる。
「あの……?」
不思議そうな顔をするシュトリナ。頬についたままのクリームとケーキ皿を見比べて、ミーアは小さくため息を吐く。
――これは……やっぱり重症ですわね……。
ベルの喪失によるショックで、FNY堕ちしそうになっているシュトリナである。
あの意味深な消え方が、ギリギリのところでシュトリナを踏みとどまらせている、とも言えるかもしれないが……。
――いずれにせよ、このまま健康を害するようなことになれば、生まれてくるあの子に顔向けできませんわ。ここは、なんとかしなければ……。
けれど、話はそう簡単ではなかった。
乗馬もダンス練習も、シュトリナを誘えそうな運動には、常にベルの姿がチラついてしまう。かといって、他に誘えそうな運動も思い浮かばない。
――エメラルダさんに声をかけて泳ぐというのも、今の時期では寒いですし……。夏に海水浴に誘うというのは良いとしても、その前になにか……、あ、そうですわ!
ぽんっと手を叩き、ミーアは言った。
「リーナさん……、後で選挙の公約作りをしようと思いますの。よろしかったら、お手伝いしていただけないかしら?」
体を動かせないならば頭を使って、しっかりエネルギーを消費する。これが、ミーア式健康法だ。甘いものを食べても、頭さえ働かせていればいいのだ。どれだけ食べてもいいのだ。
…………うん、いいのだ!
それに、つらいことがあった時には、なにか気を紛らわすことをしたほうが良い。忙しくしていれば、その内に時間が解決してくれることだってあるだろう。
ミーアの言葉に、あまり気が進まなそうな様子ではあったが……、シュトリナは小さく頷いた。
「はい……。わかりました。図書室に行けばいいですか?」
「そう急がなくっても大丈夫ですわ。わたくしも、少し甘いものをいただいてから行きますから。そうですわね……、目覚まし代わりにお風呂にでも浸かってから来てくれればいいですわ」
言いつつ、ミーアはシュトリナの口元についていたクリームを、ハンカチでそっと拭った。
「あっ……すみません……ミーアさま」
シュトリナは、わずかに恥ずかしそうに頬を染める。
「ふふふ、リーナさんらしくないですわね。そんなことでは、エメラルダさんに会った時に、お小言をもらってしまいますわよ」
そんなやり取りの後、ミーアは、あまぁいお菓子をパクリゴクリした後で、図書室へと移動したのだが……。