第二百三十一話 静かに侵食する、ツッコミなき世界……
ヴァレンティナを塔の上に引き上げたところで、ミーアとアベルは、その場にへたり込んだ。ヴァレンティナのほうも、もはや抵抗する気力はないのか、その場に倒れたまま、起き上がろうとしなかった。
が、そのままの姿勢で、彼女は疲れた笑みを浮かべた。
「アベル、あなたも私を助けようというの? 相変わらず優しい子ね。それではゲインに勝てないでしょうに」
挑発するような声をかけるヴァレンティナ。そんな彼女に、ミーアは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「なにも知りませんのね。アベルはすでに、あのお義兄さまに勝っていますわ」
それを聞き、ヴァレンティナは少しだけ驚いた様子で首を振った。
「あら、そうなの。それは意外ね……。あなたは、てっきり、女の子に優しいだけのつまらない男に育つと思っていたのだけど……」
そんな姉に、アベルは、ただ一言、告げるのみ。
「ミーアが、いてくれましたから……」
それから、彼はミーアのほうを見た。その視線に、どこかすまなそうな色を見つけて、ミーアは首を振った。
「アベル、あなたが気に病む必要など、どこにもございませんわ。わたくしは、ただ、わたくしの勝手で……そう、わたくしの気分が悪いから助けただけのこと。あなたのせいではありませんわ」
そんなミーアに視線を向けて、初めて、ヴァレンティナの顔に苛立ちのような表情が浮かぶ。
「帝国の叡智、ミーア姫、あなたは……なに?」
苛立ちと……、困惑……。素の表情を隠すことなくヴァレンティナは言った。
「あなたのありようは、なんだか、逸脱しているように見える。この世界の、歴史の流れから逸脱した……異質な者のように見える。あなたはなに?」
「わたくしは……」
ミーアは少し考える。それから、わずかな決意を込めて告げる。
「ミーア・ルーナ・ティアムーン。帝国初の女帝になる者ですわ」
その答えに、ヴァレンティナは……かすかな嘲笑を浮かべる。
「そう、普通ね……とても普通」
失望を露わに、つまらなそうにつぶやいて、ヴァレンティナは言った。
「帝国を統治するというのなら、覚えておくといいでしょう。蛇のロジック。イエロームーン公ローレンツを絶望させ、リーナさんの中に私が植え付けたものを」
そうして、ヴァレンティナが口にした蛇の理屈……それを聞いてミーアは思う。
――ああ、それは、実に面倒くさそうですわ……。
蛇のロジックとは、統治する者にとって極めて厄介な思想だった。
それは、統治者がサボり、怠け、民を踏みつけにした時に発芽するもの。統治者に対しての戒めのようなものだったから……。
ただまぁ、面倒ではあるのだが……。
「それを防ぐことは、難しいことではないのではないかしら? 弱き者、敗者にも食べ物を与えれば良いのですわ」
それは、ミーアがなしてきたこと。
その日、その日の安定と幸福、それさえ失わぬ限り、人が蛇に魅入られることはないわけで……。
「民をお腹いっぱいにすればいい。人は腹が満ちれば、動きたくなくなるものですもの」
ミーアの物言いに、ヴァレンティナはおかしそうに笑った。
「面白いことを言うわね。ふふふ、確かにそう。食べ物が行き渡っているところで、革命の火を灯すことは難しい。食の不足は死の恐怖を喚起し、容易に民の心を不安にする。それは、たしかに蛇が付け入る隙ではあるわね」
ヴァレンティナは、それから、小さく首を振る。
「けれど、それすらも、永久には続かないでしょう。人は愚かな者。あなたが賢明な判断をしたとして、あなたの後に、暗愚な指導者が現れないとも限らない。その時、眠っていた蛇は目を覚まし、あなたたちがせっかく築いた国を、やすやすと呑み込むことでしょう」
世界は、いずれ蛇に呑み込まれる。最後の最後には、蛇の理屈が勝利する。
ヴァレンティナの主張に、しかし、ミーアは笑い返す。
「別に、永遠にわたくしが勝ち続ける必要などありませんわ。わたくしは孫たちが安心して暮らせる程度の繁栄があれば、それで十分。そこから先の世界がどうなるかは、もはや、わたくしの知るところではありませんわ」
蛇と同じく、ミーアにも確固たる思想がある。
揺らぐことのない自分ファーストが、常にミーアの胸にはあるのだ。
自分が死んでしまった後のことまでは、正直、面倒を見切れない。ベルの暮らす世が良いものであるように……ぐらいは思うが、ベルの子や、孫の世代に関してはもはや、ミーアの知ったことではないのだ。
彼らもまた、自ら蒔いた種を刈り取るだけのこと。
ミーアとしては、自身が学んだそれを、しっかりと後世に伝えるぐらいしか、できることはないわけで……。
――わたくしの子孫が、わたくしと同じように注意深く、賢く、慈悲深く。帝国を治め、他国との良好な関係を築いていけば、安寧の時は長く続くはずですわ。わたくしのように、知恵ある者が……極めて優れた帝国の叡智が未来にも生まれれば、きっと……。
ツッコミなき世界の浸食が、静かに始まっていた。
「だから、わたくしは、今をあがくだけですわ」
「そう。まぁ、それもいいでしょう。どうせどちらでも同じこと。けれど、少しだけ、あなたに興が乗ったわ。私はあなたがどうなるのか、じっくり見させてもらいましょう」
そうして、ヴァレンティナは笑った。
「ミーアさま!」
次の瞬間、塔に皇女専属近衛隊の面々がなだれ込んできて……。
こうして、巫女姫ヴァレンティナは、拘束された。