第二百二十九話 導の少女4~決戦の塔へ~
「あらあら、ふふふ。弟たちが守ってくれるなんて。それならば、私は今のうちに引こうかしら?」
よろり、と立ち上がると、ヴァレンティナは馬駆のほうに目を向けた。
「馬駆、後のことをお願いしていいかしら?」
「なにをするつもりだ?」
眉をひそめる馬駆に、ヴァレンティナは楽しそうな笑みを浮かべる。
「ちょっとした仕上げよ」
歌うように言って、ヴァレンティナは踵を返す。
「逃がしませんわ! 行きますわよ。アベル!」
ここで、彼女に逃げられるわけにはいかない。ミーアは、ヴァレンティナの後を追うべく、走り出す。
「しかし……」
躊躇うように、兄のほうに目を向けるアベル。そんな視線に気付いたのか、ゲインは皮肉げな笑みを浮かべて言った。
「行け。アベル、姉上を止めろ」
「兄上、ですが……」
「その腕では、ギミマフィアスの一撃で、剣を飛ばされる。それで終わりだ。それに……」
ゲインは、剣を構えたまま、ギミマフィアスのほうを見た。
「第二王子と王命ならば、王命のほうが重かろうが、第一王子と王命とならば、お前の中ではどちらが重いかな?」
「…………」
無言を返すギミマフィアスに、ゲインは笑みを浮かべる。
「そういうことだ。せいぜい、師に稽古をつけてもらうとするさ。だから、行け。必ず生け捕りにして戻ってこい。このような無様を曝したのだ。存分に、嘲笑ってやらなければ気が済まん」
「兄上……。わかりました。それでは、お気をつけて」
そうして、アベルはミーアとともに走り出した。
「行かせぬ」
そんな二人の前に火馬駆が立ち塞がろうとするが……。
「おいおい、見くびられたものだね。帝国最強を自認する者としては、プライドが傷つくよ」
横合いから、ディオンが斬りかかる。
「くっ……」
「兄上! もう、剣をおさめてください!」
いつの間に来たのか、慧馬が悲痛な声を上げた。
「あのディオン・アライアが相手ですよ? あのディオン・アライアなんですよ!! 殺されてしまいます!」
「いや、殺すな、と姫さんから命令されてるんだけどね……」
苦笑いを浮かべてから、ディオンは馬駆を見た。
「馬上じゃないなら、万に一つも勝ちがないと思うけど、それでもやるかい? どうやら、君の妹君も、うちの姫さんの友となったようだから、僕としては、怪我する前に剣をおさめてもらえると楽なんだけど……」
「あり得ぬ話だ。貴様を殺し、レムノの剣聖を殺し、ゲイン・レムノを殺して、巫女姫のところに向かう。我の成すべきことは、なにひとつ変わらぬ」
やれやれ、と首を振り、ディオンは肩をすくめた。
「それはなにより。ならば、存分に殺しあおうか」
激戦の音を背に、ミーアたちが向かったのは、眼前にそびえ立つ塔のほうだった。
「ふむ……罠があるかもしれませんわね。慎重に……」
「ミーア、その……彼女は?」
遠慮がちに問われ、ミーアの足が止まる。
「ええ……。お別れを、してきましたわ」
アベルのほうを振り返ることなく、ただ淡々とミーアは言った。
「そうか……」
固い声でそう答え、アベルは深く息を吐き……。
「あ、そう言えば……あなたも肩に矢傷を受けてましたわね」
ミーアは、アベルの腕を見る。と、矢は半ばから折られており、そこに布が巻かれていた。
「ごめんなさい。気付きませんでしたわ。それ、大丈夫ですの?」
手を伸ばそうとしたミーアだったが、その手が止まる。
アベルの、悲壮な声が聞こえたから……。
「……仇はボクが討とう。兄上には申し訳ないけど、ヴァレンティナ姉さまはボクの手で……」
「それでは、ダメですわ」
そこではじめて、ミーアはアベルの顔を見た。泣き出しそうな顔をするアベルに断固たる口調で言ってやる。
「ヴァレンティナお義姉さまは、連れ戻さなければなりませんわ」
「ミーア、しかし……」
「絶対に生きたまま、連れ戻さなければならない。その理由が、ありますの」
ミーアは言った。
珍しいことに、今は……、今だけは、ミーアは、自分がしなければならないことがわかっていた。
ベルが、そう示してくれたから。
「約束していただきたいんですの、アベル。必ず、ヴァレンティナさんを生きたまま連れ帰ると」
アベルはギリッと歯を食いしばってから、静かに頷いた。
そうして、二人は、塔の頂上に至る。
「追い詰めましたわよ。ヴァレンティナお義姉さま」
青空の下、ヴァレンティナは、静かに佇んでいた。体を壁に預け、苦しげな顔をしていた彼女だったが、ミーアたちに気付くと、すぐに、姿勢を正した。
「ああ、やっと来た。待ちくたびれたわ」
「それは、お待たせしてしまって申し訳ありませんでしたわね。改めて、ミーア・ルーナ・ティアムーンですわ」
スカートの裾をそっと持ち上げてから、ミーアは静かにヴァレンティナを睨む。
「これはご丁寧に。帝国の叡智。私は、ヴァレンティナ・レムノ。レムノ王国の第一王女で、そこのアベルの姉よ」
傾国の美姫のごとき嫣然たる笑みを浮かべて、ヴァレンティナは言った。
その身は、血に汚れてはいたものの、そのせいで却って凄絶な美しさが際立って見えた。
「ヴァレンティナ姉さま……。なぜです? なぜ、このような酷いことをされるのですか?」
黙っていることができなかったのか……アベルが言った。その血を吐くような問いに、ヴァレンティナは肩をすくめた。
「きっかけは、まぁ、父さまの側近に殺されかけたこと、かしら? 少しずつ、レムノ王国を改革しようとしていた最中だったから、それなりにはショックだったのよ」
そうして、彼女は、困ったような笑みを浮かべる。
「レムノ王国は間違ってる。人は、何者として生まれたかではなく、何者になったのか、で評価されるべきだ! とか、考えていたわ。矛盾するようだけど、王家に生まれた者として、男女差や身分の差によらない、能力による国家運営の形に改革していけたらいい、なんて青臭い信念を持ってはいたのだけど……見事にポッキリ折られてしまった」
「だからって……」
抗議するようなアベルの声を、ひらひら手を振って遮って、
「ああ、いいのいいのよ。アベル。私もそう思う。だからって、こんなことをするのはおかしい。間違っている。ええ、私もそう思う。完全に同意する。だから、私の挫折というのはただのきっかけに過ぎなかったのよ、たぶんね」
それから、ヴァレンティナは、なにかを探るように、手を服の上にさまよわせて……。
「ああ、教典は燻狼さんにあげてしまったんだったわね。まぁ、いいでしょう」
まるで諭すような、ゆったりとした口調で、ヴァレンティナは話を続ける。
「私個人の事情なんか、結局のところ些細なこと。私がこうなったのは、不条理を押し付けてくるお父さまたちのためでもなければ、敗北したという感覚のためでもない。どれだけ必死に頑張ったとしても、仮にレムノ王国に変革を起こし、理想的な国家を作ったとしても、そんなもの百年と経たずに混沌の蛇に呑まれてしまうという現実に直面したからよ」
熱に浮かされた様子で、ヴァレンティナは言った。
「蛇の誘惑は強力よ。敗北した身には切実に迫ってくる。その力を実感してしまって、地を這うモノの書を読んでみて……。先代の巫女姫さまから、大陸の繰り返される歴史を教えてもらって……なんだか、必死に頑張ってきたのが馬鹿馬鹿しくなってしまってね。どれだけ頑張っても、人は、人の性質ゆえに、決して蛇の呪縛を逃れることができない。どうせ、蛇の作り出す歴史の流れに呑まれるだけなのだとしたら……逆らう意味なんかない。むしろ、その流れに身を任せてみようかなって、そう思ったのよ」
饒舌に、まるで詐欺師のような口調で、ヴァレンティナの声が響いた。