第二百二十八話 導の少女3~ミーアのすべきこと~
「ベル……一番、肝心なところを言わずに、行ってしまいましたわね……」
ぽつり、とミーアはつぶやく。その声は小さく震えていた。
「これでは、全員産むしかないではないですの……八人は、さすがに多いですわ」
そうして、脳裏を過ぎるのは、かつて何気なく考えた推論だった。
歴史を改変した際、なぜ、ベルと皇女伝とに違いが出たのか?
それは文字は変えやすく、記憶は変えづらかったから。
あの日記帳が消え、ベルが消えずにいたのも、そのためで……。
つまりは改変の影響を受けやすいものと受けにくいものがあるということ。
命持つ者は、歴史を変えた時の影響を受けづらい。そうだとすればベルが消えてしまったということは、つまり……。
ミーアは、静かに瞳を閉じる。
まぶたの裏に、あの、孫娘の能天気な笑みを思い浮かべて……。
不意に、外から剣戟の音が聞こえてくる。
「ああ、そうですわね……まだ。わたくしにはやらなければならないことが、ありますわね」
ベルがいなくなってしまったから……。なおのことやらなければならないことができてしまった。
ミーアは、目元をぐいっと拭い、立ち上がる。
今、自分がすべきことはなにか……?
不思議と、ミーアには、それがわかっていた。
ベルが指し示してくれた答えが、見えていた。それは、まるで導のように……。
そう、ミーアは未だに恐れている。敵が死に、自分と同じように過去に戻ってやり直しの機会を得てしまうことを。
そしてそれゆえに……希望をも持っている。
ベルが……自分と同じように過去に戻ってやり直しの機会を得ること。その可能性があるのではないか、と。
――なんと言っても、ベルはわたくしの孫ですし。それに、致命傷となったのは同じ首。まして、あんな意味深な消え方をした以上、可能性はとても高いのではないかしら……?
とすると、問題は、どの程度、過去に戻るかということである。
数日前ならば、それでも良い。要領のよいベルのことだから、きっと上手いことやるだろう。けれどもし……もしも、自分と同じように八年前に舞い戻ったのだとしたら?
ベルにとっての八年前、それは言うまでもなく未来のことで……。
――内戦で、めちゃくちゃになった帝都で目覚めるなんて、それはあまりにも可哀想ですわ。
ここでヴァレンティナに死なれては、きっとアベルとの仲がぎくしゃくする。そうなったら、もしかしたら、ベルは生まれてこないかもしれないし、生まれてくるにしても、きっと未来の帝国にもよくない影響を及ぼすだろう。
それでは困る。それはとても寝覚めの悪いことだ。
ベルには、今よりもさらに発展した状態の帝都で、優しい人たちに囲まれて目覚めてほしい。
ベルが次に目覚める場所を幸せな夢の続きにすること……それこそがミーアのすべきことであり、導だった。
――ああ、ベルは本当にわたくしにとっての導になったのですわね……。
静かに息を吐いてから、ミーアはルードヴィッヒのほうに目を向けた。
「ルードヴィッヒ、リーナさんのこと、お願いいたしますわね」
ミーア以上に状況がわからず、呆然としている従者たちに一声かけて、それから礼拝堂を走り出た。
外では、複雑な戦闘が展開されていた。
膝をつき、動けずにいるのは、ヴァレンティナだった。その手にはすでに剣はなく、服が血に染まっている。
レムノの剣聖ギミマフィアスと打ち合ったためか、傷は深そうに見えた。
そんなヴァレンティナに追撃をかけるべく、ギミマフィアスが突撃する。けれど、その前に、帝国最強、ディオン・アライアが立ち塞がる。
「邪魔をしないでもらおうか」
ギミマフィアスは、叫び、一閃! 上段から神速の一撃を放つ。
それは、アベルの振り下ろしをさらに重く、速くした一撃。ディオンは、それを……あえて正面から打ち返す。
剛と剛。一歩も引かぬ斬撃の激突。
打ち合わされた剣から火花がパッと散り、二人の騎士を彩る。
鍔迫り合いの剣越しに、ギミマフィアスは静かに問う。
「……なぜ、止める? 吾輩と貴殿の目的は一致している、敵は同じだと思うが」
敵意の滲みだした、低い声。対するディオンは、普段と変わらぬ飄々とした声で答える。
「奇妙な会話だね、これは。普通は、かつての主君だとか弟子だとかに情があって、それをかばおうとするのを、僕が攻め立てる流れだと思うけど。いいのかい? あちらの巫女姫さんとやらは、君が仕える国王の娘、君が剣を教えた弟子なんだろう?」
「御心配には及ばぬ。吾輩は、レムノの剣。レムノの騎士。我が剣は国王陛下にささげしもの。なれば、その命を全うすることこそが騎士たる者の誉れ。我が国に害をなす者は我が身の全力を持ちて排除する」
「ははは、気が合うね。僕もそう思う。ならば、もう問いの言葉は不要だろう。互いに、主君の命を全うするのみさ」
一度離れ、今度はディオンが踏み込む。
「正直、納得はいかないが、我が姫君は誰の命も落とさずに終えることをお望みなのでね。めんど……いや、難儀なことではあるんだが……仕方ない。たまにはいいさ」
「わはは、面倒くさいとは……。勤勉な帝国の叡智の臣下に相応しからぬ言葉だ!」
地を這うように下から、一撃、二撃、三撃。それぞれ異なる軌道の斬撃を放つも、ギミマフィアスは、そのすべてを受け流してみせた。
「ははは。姫さんのことをよく知らないようだから、言っといてあげるけど、勤勉という言葉は姫さんには一番似合わない言葉だよ。後で楽をするために全力で頑張るってタイプだ。っと!」
ディオンは鋭く突きを放ち、ギミマフィアスの肩口を打って体勢を崩す。と同時に、真後ろに飛び、もう一人の手練れ、火馬駆に斬りつける。
「むっ……」
その斬撃を受け流しつつ、馬駆は眉をひそめた。
「そちらも勝手に逃げたりしないでもらおうか。こっちは、犠牲が出て気が立ってるものでね。いくら姫さんの命令と言えど……うっかり間違いは起きるかもしれない」
苛烈な斬撃を放つディオンは笑ってはいたが……明らかに、その目には冷たい殺意が宿っていた。
ミーアの命令と、巫女姫への殺意、際どいバランスの中にあって、その剣技は冴えわたっていた。
「ディオンさんっ! アベルっ!」
ミーアの声に、全員の視線が集まる。
「ミーア、ダメだ。来るな」
制止するアベルだったが、それで止まるわけにはいかない。なぜなら、アベルが、隙を伺い、ヴァレンティナに斬りこもうとしていたからだ。
「アベル、わたくしのことが心配ならば、わたくしのそばで守ってくださらないかしら?」
すまし顔で言ってから、ミーアはディオンに目を向けた。
「ディオンさん、よく、状況を止めてくださいましたわね」
「骨が折れましたがね。それで、どうするんです? レムノの剣聖とともに敵を討てと命じてもらうのが一番楽でいいんですがね」
「残念ですけれど、生け捕りにしていただきたいですわ。ヴァレンティナ王女も、慧馬さんのお兄さまも」
ミーアの答えによどみはなかった。ミーアにはしなければならないことがあったからだ。
「さて、困りましたな。吾輩としては、ヴァレンティナさまが、生きてあなたがたの手に落ちることは避けたいところなのですが……」
ギミマフィアスの声が低くなる。
「かくなる上は、我が主命を守るため、捨て身で行かせていただく」
「無茶はするものじゃないと思うけどね、ご老体」
ディオンはチラリ、と馬駆のほうをうかがってから、片方の剣を鞘に収め、両手持ちに変える。
ピリピリと、肌を刺すような緊張感が高まっていき……そして、
「ギミマフィアス、剣をおさめろ」
状況は、再度、変化する。
不機嫌そうに眉根を寄せて、レムノ王国第一王子、ゲイン・レムノがゆっくりと、そこに歩いてきた。
「これは、ゲイン殿下……。ご機嫌麗しゅう。なぜ、このような場所に?」
「なに、父に怪しげな密書が届いたようなのでな。調べに来たまでのこと」
彼は、懐から植物紙を取り出すと、そこに放り捨てた。
「ああ……それは失敗でしたな。もっと報せには慎重を期するべきでした。本来ならば、もっと早くに行動すべきでしたが、護衛と暗殺の兼任というのは、さすがに老体には無茶が過ぎましたな」
「暗殺……。では、やはり……以前、姉上を殺すように動いたのも父か」
「それについては、吾輩の知るところではありませぬ。ただ一つ言えることは、国王陛下は、この手の謀略に、そこまで慣れてはいないということでしょうか」
「それは、だから姉の暗殺が失敗したと言いたいのか、それとも、姉の暗殺などそもそも企まないと言いたいのか」
「そこはご想像にお任せいたしまする」
慇懃無礼に頭を下げるギミマフィアスに、ゲインは小さくため息を吐き、
「しかし、我が国の近隣にこのような場所があったとはな。寡聞にして聞いたことがなかったが……」
「古い邪神を崇拝する者たちが建てたお城みたいよ? 信者自体はとうの昔に死に絶えたみたいだけど、ヴェールガとの国境沿いにある拠点だから、なにかに使えないかって、先代の国王陛下がこっそりと直したらしいわよ?」
気軽な口調で口を挟んだのは、ヴァレンティナ・レムノだった。からかうような口調で言って、視線を巡らせる。
「そういうことよね? 我が師、ギミマフィアス?」
「姉上……」
苦々しげに睨み付け、ゲインは言った。
「お元気そうですね」
「あら? 嫌味かしら? 師匠にやられて、満身創痍なのだけど」
「相変わらず、口が減らぬことで……。せいぜい、戻って父に嫌がらせをしてやると良い」
それから、ゲインはギミマフィアスに視線を戻した。
「なにをしている? ギミマフィアス、剣をおさめろと言ったぞ」
「残念ながら、殿下、吾輩は、お父上である陛下より命令を受けておりますゆえ」
その答えに、ゲインの頬がぴくり、と震える。
「ほう。この俺の命令が聞けぬか……」
それから、彼は、剣を抜く。
「では、俺を斬り殺してでも、その命令に従うか?」
「なるほど。それは厄介。まぁ、そうなれば、殿下の意識のみを刈り取って、目的を果たすのみ」
「そうか……。それはちょうどいい」
ゲインは静かに剣を構えた。
「腕試しをしたいと思っていたのだ。一つ稽古をつけてもらおうか。レムノの剣聖」