第二百二十六話 導の少女 ~ベルの決意~
――ともかく、リーナさんのところに行かなければなりませんわね。えーっと、周りに気を付けて、罠を踏まないように……、こう一歩目の重さが生じる前に二歩目を踏み出す、みたいな、水の上を歩く感じで行けば……。
などとミーアが考えていた……次の瞬間!
ぶわ、っと、突如、上方から落ちてくる漆黒の影。その手には、ギラリと光を放つ、剣が握られていて……。
着地と同時に、影は、一足飛びにミーアに迫る。
か細い首筋に迫る一筋の斬光! それに……ミーアはまったく気付くこともなく、当然、反応などできるはずもなくっ!
がいんっと重たい金属音。直後、
「おっと……そう簡単にはやらせるとでも?」
響いたディオンの声が想定外に近くて、ミーアは驚き……固まる。
なにやら、視界の端のほうに金属の輝きが見えるような気がして……ああ、これは、きっと今しがた、首を切られそうになったんだろうなぁ、と察したミーアは、あえてそちらに視線を向けなかった。
なぜって? もちろん、怖いからである!
ギシギシと、金属がこすれる怖い音が耳元で聞こえていたが、あえて見ない。
それは、言ってしまえば幽霊と同じようなものだ。
いると思うから怖いのだ。あんなものは思い込み。いないし、見えないし、聞こえないと思っていれば、怖くなくなる。暗殺者の刃も同じである……。そうだろうか?
「動じぬか。さすがは帝国の叡智、といったところか……」
感心した様子の狼使いに、ディオンが獰猛な笑みを浮かべる。
「自分の持つ自慢の剣を信じているということさ。おっと」
直後の風切り音。ディオンは、片手でもう一本の剣を抜き、無造作に空中を薙いだ。
ぽとり、と音を立て、落ちたのは一本の矢だった。
「あらあら、偉そうにリーナさんに話をしたのに、これでは形無しね」
呆れた様子の声が響く。矢が再び飛んでくることはなかったが……。
「ギミマフィアス殿、狼がいるはずだ。貴殿は王子と、ついでにうちの姫さんを護衛していてくれ」
剣を抜き、加勢に来ようとしていたギミマフィアスに、ディオンが言う。
「ほほう。狼。それはそれは……」
「ただの狼じゃない。かなり手ごわいはずだ。用心してくれ、ギミマフィアス」
アベルもまた、鋭く警告を発し、剣を抜く。
「さて、不意打ちには失敗したようだが、これからどうするつもりかな? 蛇の巫女姫さん?」
鍔迫り合いのまま、挑発するような口調で、ディオンが言う。けれど、巫女姫の声に、焦りはなく……、まるで歌うように彼女は言った。
「ところで、リーナさんのことは放っておいてもいいのかしら? 早くしないと間に合わなくなってしまうのではないかしら? せっかく、サービスで解毒薬を渡してあげているのに」
――解毒薬……? はて、なんのことかしら……?
と、首を傾げた刹那、重ねるようにして、声が響く。
「もちろん、持ってきているわよね? リーナさんの大切なもの……。小さな馬のお守りを……。さぁ、早く”お友だち”を助けてあげなさいな」
「あっ……」
瞬間、ミーアの脳裏に、鋭い警鐘が鳴る。
素早く視線を巡らしたその時、走り出すベルの背中が見えて……。
「ベルっ! 待ちなさい!」
制止するも、彼女が止まることはなかった。
――待ってて! リーナちゃん!
そうして、ベルは走り出した。静かな決意を胸に秘めて……。
彼女は、決して考えなしで走り出したのではなかった。むしろ、この時、最も状況を理解できていたのは、奇しくもベルだったのだ。
「お友だちを助けなさい」と、自分をおびき寄せるような敵の言葉。
どうして、シュトリナが動けないように縛ってあるのか?
どうして、毒を飲ませたはずなのに、動けなくさせる必要があったのか?
どうして、帝国最強のディオン・アライアがいるのに、あえて『弓』を撃ってきたのか……?
これは、罠。極めて悪辣な、蛇の罠。
シュトリナを助けに行かなければ、シュトリナは毒で死ぬ。
シュトリナを助けに行けば、助けに行った者は、やはり死ぬ。
そして、解毒薬を持って助けに行く人間が、敵の意にそぐわぬ者であったなら、シュトリナは矢で射られて、死ぬ。
これは、そういう罠。シュトリナを助けるために、誰の命を差し出すのかという罠。
敵の第一の目標がミーアであることは明白だ。だから、敵にとって助けに来る人間は、ミーアであることがベスト。けれど、ベルは知らされてしまっている。
巫女姫は妥協する、ということを。
護衛を連れてきてもいい、と事前に伝えることで、知らされてしまっている。
敵はいともたやすく妥協する。
ミーアとシュトリナの命では釣り合わない。だから、妥協する。
では、誰ならば、シュトリナと釣り合う?
敵は、きちんと指名してきていたのだ。
小さな馬のお守りを持つ者……持っている可能性が高いシュトリナの『お友だち』。
巫女姫は、朗らかに呼びかける。
『さぁ、お友だちを助けてあげなさい』と。
ベルに突き付けられたのは残酷な選択肢。
自分の命か、友だちの命かという二者択一。
いつ死んでも良いとは、ベルは、もう思わない。
簡単に諦めない。諦め悪く、この世界にしがみつこうと思っていた。
だって、ベルはこの世界が好きだから。
この世界を心の底から愛おしく思っているから……。
……でも、それでも……ベルは選ぶ。シュトリナを、助けることを。
その小さな胸には、決して消えない思いがあったから。
あの世界……ベルがいたあの未来は、たぶん、もうないのだろう。
ミーアが、悲劇を回避するために奮闘してきたことで、たぶん、あの世界は消えてしまったのだろう。そんな漠然とした予感がベルの中にはあった。
でも、それでも……決して消えない言葉があったのだ。
消えない想いの炎があったのだ。
帝国の叡智の血を継ぐ最後の姫として、その誇りを胸に抱いて生きるということ……。
その名に恥じぬ生き方をするということ……。
友の命が消えようとしているのに、友が苦しんでいるのに、自らの命を惜しむ。それは、帝国の叡智の血を継ぐ者に、相応しい姿ではない。
「リーナちゃんを、助ける……」
自身の命を軽んじるのではない。
だけど、重たい命を投げうってでも、なお、守りたい想いがあったから。
ベルは、躊躇いなく真っ直ぐにシュトリナに駆け寄る。そのそばに近づき、呼びかける。
「リーナちゃん!」
苦しそうな、青白い頬をしたシュトリナ。その白い唇を無理やりに開けさせると、ベルは小さな馬のお守りの、お腹の部分を開く。
不自然に硬くなっていた、そこには、小さな瓶が入っていた。中身を取り出すと、シュトリナの口に、一気に流し込む。
「ん……く……ぅ」
途端、シュトリナの眉間に、苦しげな皺が寄る。直後、けほ、けほっと、シュトリナが小さくせき込んだ。
涙の滲んだその瞳が、うっすらと開き、そして……。
「ベル……ちゃん?」
かすれる声で、シュトリナが言った。
「リーナちゃん……よかった……」
ベルが、小さく息を吐いた刹那……鋭い風切り音が響き……そして……。