第二百二十五話 もう一人の王子
レムノ王国の王城フェデスクード城の一角。王家の男たちが剣の腕を鍛える鍛錬場で、ゲイン・レムノは一心不乱に剣をふるっていた。
ゲインを取り囲むようにして立てられたのは、太い木の枝を束ねて作った、模擬用の人形だった。真剣を使い、次々と標的を切り倒していく。一見すると力任せ、されど、見るものが見れば気付く。
その剣筋は意外なほどに、素直で、洗練されていた。
ここ最近の彼は、人を相手にした鍛練をやめていた。
剣の師であるギミマフィアスの不在というのも大きな理由であったが、それ以上に、王子におもねる相手は、自身の剣を弱める要因になると気付いたからだ。
「雑魚をどれだけ叩き伏せたところで、意味がない」
そうと気付いてからは、ただただ、一人で剣を振り続けるようになった。
そんな彼の目に映る幻の敵、それは、弟であるアベル……ではなかった。それよりも背が高く、細身の……。
「はぁっ!」
雑念を振り払うように、横薙ぎ。
最後の標的を真っ二つにし、刃を鞘に収めたところで、彼は大きく息を吐いた。
気付けば、その額には大粒の汗が浮かんでいた。それを袖で拭いながら、ゲインは廊下へと出る。っと、ちょうどそこを通りかかったメイドの少女を見つける。まだ年若い、働き始めて間もないメイドだった。
「おい、そこのお前、水を持ってこい」
ゲインの声に、少女はビクッと背を震わせた。
「……はっ、はい。ただいま」
一瞬、困ったような顔をした少女だったが、すぐに踵を返そうとする。
その様子に、ゲインはかすかに眉を顰める。
この城のメイドたちは、ゲインの言葉を恐れ、即座に従う。にもかかわらず、一瞬とはいえ、迷った様子を見せた彼女に、不審を覚えたのだ。見れば、彼女は折りたたまれた植物紙を、大切そうに握っていた。
「待て。それは、なんだ?」
「あ、その……これは、国王陛下に、と……」
「冗談を言うな。そのように薄汚れた親書があるものか」
ゲインは鼻で笑い飛ばすと、少女を睨みつける。
「ひっ、う、嘘は申しておりません。ただ……その」
「埒が明かんな。よこせ」
言うが早いか、彼はメイドの手から植物紙を奪い取る。その速さに、メイドは抵抗することもできなかった。それどころか、
「あっ……」
殴られるとでも思ったのか、メイドは目を閉じ、ビクッと体を震わせていた。後ずさろうとした瞬間、足元が滑り、後ろに倒れそうになる。
ため息混じりに、ゲインはその腕を取り、支えてやる。瞬間、
『ダメでしょう? ゲイン、女の子を怖がらせたら……』
頭の中に響くのは、自分を諫めるような女性の声。子ども扱いするような声音が不快で、ゲインは舌打ちする。
「なにをしている? 水だ。これは俺のほうで父上に渡しておく」
「ひっ、で、でも……」
「咎められたら、俺に殴られて取られたとでも言っておけ。それで文句を言う者もいなかろう」
それだけ言うと、ゲインは素早く植物紙に目を通した。
「なんだ……? ギミマフィアスからか……そういえば奴は、アベルの護衛で国外に出ているんだったか。サンクランドでダンスパーティーか。くだらんな」
鼻で笑い飛ばす。
刹那、再び脳裏に、声が響いたような気がした。
『ことさらに、相手を見下してみせるのは、負けるのが怖いから? 弟に負けたのが、そんなに悔しかったの?』
からかうような笑い声に……彼は思わず苦い笑みを浮かべる。
「やれやれ、あの女なら、確実にそう言うだろうな……」
アベルに負けて以来、なぜか、思い出すことが多くなった姉。第一王女ヴァレンティナ・レムノ。
『いいこと? ゲイン、もしも威張りたいと思うなら……まぁ、威張ること自体もあまり褒められたことではないけど……せめて、力を示すこと。なんの力も優れたところも見せず、ただ、出自であったり、長男であったり、男であったり……そういうことを理由に偉そうにするのは、とても醜悪なことよ』
そう説教を垂れてきた姉に、憎らしい姉に……ゲインは、ついに剣で勝つことはできなかった。
『卑怯な剣を使うな……。しっかりと正面から打ち合え!』
そう抗議したら、
『あら、戦場でもそんなことを言うつもりなのかしら? どうして、敵がまともに剣を交えてくれると思う? 相手を倒し、生き残ったほうが勝ち。あなたが王として立つ戦場はそういう場所だと思うけれど?』
シレッとそんな戯言を返してきた。
あの時の、涼しげな笑顔は、未だに彼の目に焼き付いて離れない。
あの、一切の斬撃を避け、いなし、鋭く放たれる反撃……。あの流れるような美しい剣。彼が倒したいと心から願った相手は、一度も勝ちを譲ることなく、彼の前から消えた。
「戦場において、王族は死んではならない。そんな偉そうなことを言いながら、戦場に立つことなく死んだあなたは敗者ではないか」
この国を変えるのだと、大言を吐いていた姉は、ある日、唐突に命を落としたのだ。
「ちっ、くだらないことを思い出したものだな」
やれやれ、と首を振り、彼はギミマフィアスからの報告を読み進めていく。そして……。
「……っ!」
見慣れた名前を、見つけてしまう……。
「ヴァレンティナ……姉さま」
父に、王に反抗し、大貴族たちの反感を買ってでも、国を変えようとした姉。
死んだはずの姉の名前が、そこには確かに書かれていた。
あの姉が、実は生きていて……悪事に加担していたと……、確かにそこには書かれていた。
「なにをしているのだ、姉上……」
思わずつぶやき、彼は驚く。
自身の心が、思いのほか揺れているということに……。
自分に勝ち続けた姉がくだらない悪事に加担している……それが、なにより許せなかった。
「なにをしているのだ……俺も……。くそ……」
彼は剣を握りしめたまま、厩舎のほうに足を向けた。
かくて役者は揃い、物語の舞台は再び蛇の居城へ。