第二百二十一話 蛇の悪意
その日も、相変わらず、巫女姫ヴァレンティナは、シュトリナとのお茶会を楽しんでいた。
「そう言えば、あなたは、武芸を嗜まれたりはしないのかしら? たしか帝国のレッドムーン公爵令嬢は、剣の腕前もなかなかのもの、と聞いているけれど……」
「いえ。リーナは……そんなに重たいものは振れませんから」
「ふふふ、毒ビンより重たいものは持ったことないかしら?」
ニッコリ笑みを浮かべるヴァレンティナに対して、シュトリナの返事はそっけない。
「仮に鍛えたとしても、リーナでは、そこのお強い護衛の方にかなうとも思いませんから」
チラリ、とシュトリナが視線を向けたのは、ヴァレンティナの隣に控えた狼使いのほうだった。
「あら、そんなことはないわよ。たぶん、あなたたちイエロームーン家は、力がなくても相手を殺す方法として、毒の知識を身につけたのでしょう? 同じことよ。剣術もね」
上品に笑い、彼女は紅茶に口を付ける。
「強さで言えば、もちろん、私は彼にはかなわない。力が違うものね。でも、それでも彼を切り殺すことはできるわ。だって……」
ヴァレンティナは、テーブルの上に置いてあったフォークを手に取り、自らの指先をつついてみせた。
「人は鋼よりも弱い。どれだけ強い人であっても刃物で切り付ければ肌を切り裂くことができる。首とか、腕とか、切り裂けば死ぬ場所を切れば、殺すことができる。ミーア姫自慢のディオン・アライアだってね。もちろん、工夫は必要。力で及ばないのは確かなのだから、刃を交えないようにとか、相手が力を入れづらいように微妙に間合いを外すとか。でも、それって練習次第でなんとでもなることだしね。剣の腕前が強いの弱いのなんて、馬鹿馬鹿しい話よ。というか、そもそもそれ以前に、遠くから弓で射殺してしまえばいいだけだものね」
まるで、剣術をくだらないもののように、彼女は嘲笑う。
「そう。ヴァレンティナさまはずいぶんと、お強いのでしょうね。もしかして、護衛の者たちをすべて帰してしまったのも、そのためですか?」
シュトリナは、がらんとした廊下のほうに目をやった。今日の昼前、やってきた火の一族の女性たち。彼女たちの呼びかけで、城を守っていた兵士のほとんどは姿を消してしまった。
「まぁ、まずいと言えばまずいのだけど。それは私ではなくって、ミーア姫の問題よ? あちらがとっても美味しそうなエサで火の一族の方たちを誘うものだから、彼らの心をすっかり奪われてしまったのよ。なかなかやるわね」
それから、ヴァレンティナは、狼使い、火馬駆のほうに目を向けた。
「彼が族長権限とかなんとかで命じても、たぶんダメだったでしょうね。まぁ、そもそも命じることもしないでしょうけど……そもそも、この状況は、あなたが望んだものですものね? 馬駆」
問われた馬駆は、表情一つ変えずに、ヴァレンティナに目を向ける。
「なんのことを言っているのか、わからないが……」
「恋に狂った族長が、巫女姫と駆け落ちまがいに部族を捨てる。族長を失った一族は、族長の勝手に憤りつつも、騎馬王国に助けを求めやすくなる。族長に対する義理もなくなるだろうしね……。問題は妹の慧馬さんが狼を使う術を継承していたことだけど、まぁ、そのぐらいならば克服できる。場合によっては、慧馬さんも一緒に連れて行ってしまっても構わない……とか、考えていたのはそんなところかしら?」
その言葉に、狼使いは答えない。無言でヴァレンティナを見つめるのみだった。
そんな彼を見て、ヴァレンティナは苦笑いを浮かべる。その顔が……なぜだろう、シュトリナには、出来の悪い弟に向けるような、親愛のこもったもののように見えた。
「馬駆、あなた、ちょっと下手くそよ?」
「そうか……」
「そうよ。あなたのような人が、恋に心を焦がすだなんて誰も思いもしないでしょうに……。結果、一族の戦士たちの大部分が付いてきてしまって……。せめて、私に恋の言葉でも囁くとか、そういう姿を見せておけばよかったのに、本当に下手くそ……」
「……そうか」
狼使いは小さく頷いてから、
「我はむしろ、君が拒否すると思っていたが。ヴァレンティナ。まとまった戦力を保持するなど、今までの蛇のやり方にはそぐわないのではないか?」
「うん、そう。その認識はとても正しい。さっさと姿を消した燻狼さんは、正しく蛇のやり方をしてるわ。蛇は人々の中に潜んでこそ力を発揮する。でもね……ほら、私は巫女姫だから、少しほかの蛇とは違うの」
「巫女姫は、火の一族族長の権勢を明らかにするために作られた仮初のもの……そう言ってたと思いましたけど……」
シュトリナの言葉に、巫女姫は、うんうん、と頷く。
「よく覚えていたわね。偉いわ。リーナちゃん」
親しげに名前を呼ばれて、シュトリナは顔が歪むのを抑えきれなかった。
何度かのお茶会で、ヴァレンティナには、すっかり弱い部分を把握されてしまったような……そんな嫌な実感があった。
そんなこと、一切気にしない、満面の笑みでヴァレンティナは続ける。
「でも、それは認識が少しだけ甘いわ。仮初といえど、権威は権威。ハリボテみたいなものだけど、外から見れば、少しすごそうに見えない? 絶対に倒さなきゃいけない相手だとか、命に代えてでも討たなければならない敵だとか……。直接、顔を合わせて話を聞かなければならない相手である、とか……。錯覚してしまうでしょう?」
「それは……」
確かに、その通りだった。ミーアたちは、まさに、ヴァレンティナを蛇の中核とみなし、倒すべき重大な敵と考えている節があった。
「ずっと考えていたのよ。巫女姫という権威の使い道を……。正直、この虚名は邪魔よ。身をひそめるにはね。かといってただで捨てるにはもったいない。じゃあどうするか? 現状、私たちにとって一番の邪魔者は、帝国のミーア姫。だったら、彼女を呼び出すのに使えないかってね」
「だから、ここに留まると? 護衛を失っても?」
「勘違いしているようだけど、別に私は火の一族の戦士の武力をあてにはしてないのよ。まずい、と言ったのは、すんなり彼らを帰したら、彼らを必要としない企みがあるのだと露見してしまうから。その程度のまずさよ」
お茶を飲み終わったのだろうか、ヴァレンティナは立ち上がると、新しいティーポットを持ってきて、自分のものと、シュトリナのカップへと注ぐ。
「ミーア姫がここに来やすいように、戦士たちを排除したい……と、そう言うならば仕方ない。邪魔をする素振りぐらいは見せても良かったのかもしれないけれど……あまりやると、馬駆に嫌われてしまうから」
くすくすと笑って、ヴァレンティナは言った。
「どうして……リーナに、いちいちそんなこと話すんですか?」
シュトリナは上目づかいに、ヴァレンティナを睨む。自分に、これからの策略のことなど話して、いったい何の意味があるのか、彼女にはわからなかったのだ。
「さぁ、なぜかしら……。その紅茶を飲み終わったら、教えてあげるわ。ほら、冷めないうちにもう一杯飲んで。ちょうど美味しい温度にしてあるから。とっても美味しいわよ?」
華やかな笑みを浮かべるヴァレンティナ。
弄ばれている……そんな苦い実感とともに、シュトリナは紅茶を口に含み……、
「あっ……れ?」
カップが、手の中から零れ落ちた。
目の前が、ぐにゃり、と歪む。
油断があったのだ。予想すら、していなかったのだ……。
まさか、この段階で……毒を入れられるなんて……。
「ベル……ちゃん……」
ぐらり、と椅子から転げ落ち、床に倒れこむシュトリナ。
「やっぱり、私は毒よりも、剣のほうが得意ね。少ないと、効き目が出るまでに時間がかかって仕方ないわ」
「いいのか? 生きたまま使うと言っていたと思ったが……」
「もちろん、死なないようにはするつもりですけど、間に合うかどうかはミーア姫次第かしら。解毒剤を飲ませれば嘘のように、普通に目を覚ます。だけれど、遅れれば永遠に眠り続けて、いずれ死んでしまう。解毒薬はすでに渡してあるけれど、間に合うかどうかは、神のみぞ知るというところでしょうね」
「蛇の巫女姫が神の名を出すか……」
「間に合わなければ、彼女たちは神を呪うでしょう。間に合えば間に合うで……たぶん神を呪うことになる。神を呪い、世を憎悪する者、すなわち……蛇とならん、よ」
わずかに口角を釣り上げてから、ヴァレンティナは言った。
「んー、そうね。とりあえず、リーナちゃんには着替えてもらおうかしら……。そうね、もっと粗末なボロボロの服……そうだ。生贄に着せる服が有ったから、それを着せて……あの悪趣味な邪教の礼拝堂の祭壇に縛り付けるというのはどうかしら……。演出は大事だし、せいぜい"ヒドイことされたんじゃないか"って思わせるような格好をしてもらいましょうか……」
頭上で交わされる悪意のたくらみ。されど、シュトリナは抵抗することができなくって……。
「だがな、連れてきてすぐであれば、若干やつれていたが、こう毎日、きちんと食べていると血色もよくなって、いまいち説得力に欠けるのではないか?」
「ふふふ、本当ね。もっと繊細な子かと思ったけど、さすがはイエロームーン家。ある程度、割り切ってからは、まったく遠慮なく食べてたし、ぐっすり寝てたし、なかなかの胆力ね」
頭上で交わされる極めて失礼な会話。公爵令嬢として断固抗議したいシュトリナであったが、それすらもかなわずに。
「まぁ、その辺りは毒でも顔色が悪くなるし、なんとかなるでしょう。きちんと演出してあげるわ。思わず〝彼女“が助けに駆け寄ってしまうように、ね」
薄れゆく意識の中、ヴァレンティナの声が降ってくる。
「もちろん格好だけよ? これ以上、傷つけたりなんかしないわ。だって……あなたは……」
その声を聞きながら、シュトリナの意識は深い闇の中へと落ちていくのだった。