第二百二十話 はじめての共同作業
「でしたら……、あ、そうですわ!」
ミーアは、パンっと手を叩いた。
「どうかしら? ここの、屋根の上でお月見としゃれこむというのは……」
言いながら、脳裏に甦るのは、いつか聞いた景色。
灰色の地下牢で、見た鮮やかな光景。
『貧しい王子と黄金の竜』のワンシーンだった。
旅先の粗末な山小屋、その屋根の上に寝っ転がって、王子は満天の星空を眺めるのだ。
――とっても素敵だったから、一度、やってみたいと思っていたのですわ。
今にして思えば、あれは、エリスの“憧れ”だったのではないだろうか。
病弱なエリスは、きっと屋根の上に登って星を見る弟たちのことを、うらやましく思っていて……それで、その憧れを物語の中に書いたのではなかっただろうか。
そして、その憧れは、地下牢から出ることができなかったミーアにも伝染した。
――ふむ、これはぜひこの機会にやっておきましょう。
ミーアはうむうむ、っと頷いて、アベルに言った。
「どうかしら?」
アベルはミーアの提案をポカンとした顔で聞いていたが、すぐに吹き出した。
「ははは。屋根の上か。ミーアは意外とやんちゃなところがあるな」
そうして、二人は、屋根の上に出た。
幸い、小屋の二階の窓から出れば、すぐに屋根に出ることができた……のだが。
「おお、意外と高い。これは……なかなか怖いですわね」
恐る恐る、軋む屋根の上を進む。そんなミーアの手を、アベルは優しく引いて、エスコートした。
「アベルは、意外と慣れてますのね」
「ああ。昔、兄とね。厩舎の屋上に上って怒られたことがあるんだ」
「お兄さま……というと、あの……」
思い出されるのは、アベルの兄、ゲインの歪んだ笑みだったが……。
「意外かな? ボクが小さい頃は、今より少しだけ尖っていなかったんだ。一緒に遊んだことだってあったんだよ」
「そう、なんですのね……」
意外といえば意外だったが……しかし、よくよく考えると、小さい子どもの頃というのは、そういうものなのかもしれない。
ミーアには兄弟がいたことがないから、その辺りの感覚はなかなかわからないけれど……。
――なにか、きっかけがあって、あんな風に歪んでしまったんですのね。お可哀想に……。
などと思いつつ、しばらく進んだところで、アベルはごろんと横になった。
「ああ、こうすると星がよく見える。さすがはミーアだね」
「それはなによりですわ……」
もにゅもにゅと言いつつ、ミーアはちょっぴり緊張しながら、アベルの隣に横になった。
そうして……、
「ふわぁ……」
思わず、口から息が漏れた。
視界いっぱいに広がったのは、満天に輝く星空だった。全能者の叡智をもって配されたような、星々の煌めき。あまりにも美しいその光景は、見ているだけで、胸がいっぱいになってくるような……そんな錯覚すら覚えてしまうもので……。
――ああ、そうだ。そうでしたわ……。エリスの本を読んだ時……わたくしは、こんな景色を想像したのでしたわ。
それは、王子と竜が、並んで見た星空。地下牢のミーアが頭に思い描き、憧れた光景そのものだった。
「アベル、お誘いいただいて、感謝いたしますわ」
思わず、といった様子で、ミーアはつぶやく。
「ははは、気に入ってもらえたなら良かったよ。ボクは、好きな女の子には出し惜しみをしないことにしてるんだ」
快活な笑みを浮かべるアベル。それを横目に、ミーアは再び、夜空に目を向けた。
「本当に美しい星空ですわね。月も、とても綺麗……。今夜は満月ですわね……」
そうして、ミーアが、ほげーっと夜空を見上げていると……。不意に小さな声が聞こえた。
「不安……ではないのかい?」
「え……?」
アベルのほうを見る……っと、思わぬ近さに彼の顔が見えて、ミーアは小さく息を呑んだ。
「明日、蛇の巫女姫のところに行くのに、ミーアは落ち着いているな、と思ってね……」
「あ、ああ……まぁ、そうですわね。うーん……」
わずかに目を逸らしつつ、ミーアは考える。
不安は……実をいうとそこまでではなかった。
なにしろ、今回のミーアには知恵袋と最強の剣が同行しているのだ。いかな罠を敵が準備していようと、あの二人がいれば大抵のことはなんとかなりそうだった。
――アンヌもいるから、お義姉さまにお会いする準備も万端ですし……。唯一、心配なのはリーナさんですけど……。
シュトリナがひどい目に遭っていないか、それだけが心配と言えば心配だったが。
――まぁ、リーナさんも、あれでなかなかタフっぽいですし……。人質としての価値があるうちは、大丈夫なのではないかしら……。
それから、ミーアはアベルを観察する。
――ふむ、どうやらアベルは、不安を覚えているようですわね。
それも、わからなくもない。
こうして、仲間たちとともに混沌の蛇のもとへと向かうのは、レムノ王国、イエロームーン公爵邸と続き、三度目のことだった。
けれど、思えば前の時にはシオンやキースウッド、ティオーナにリオラもいた。
――アベルはなんだかんだでシオンのことを信頼しておりましたし、仲が良かったから、不安に思うのは当然ですわね。あの、荒野で狼使いと戦う姿は実に息が合っておりましたし……。
今、ミーアの近くにいるのは、古くからの忠臣、ルードヴィッヒとアンヌにディオンを加えた、帝国の者たち。それに、アベルとその従者ギミマフィアスだった。
――いわば、帝国とレムノ王国の連合部隊といったところかしら……。しかし……ふむ。
ミーアは、極めて重大なことに気付く! 気付いてしまう!
それは……、
――帝国の家臣をわたくしの腕、レムノ王国の従者をアベルの腕とみなすならば……これは、わたくしとアベルの初めての共同作業と言えるのではないかしら?
実にしょーもないことだった!
いや……ほんとーにしょーもない恋愛脳だったっ!
――ふふふ、そういうことでしたら、絶対に成功させなければなりませんわね。リーナさんを無事に救い出し、誰も不幸にしないように。ヴァレンティナお義姉さまも無事に連れ戻さなければ……。初めての共同作業を、不幸で終わらせることなんて、できませんわ。
などと、斜め上の方向に気合を入れるミーアだったが……。
「ミーア……?」
「え……?」
ふと見ると、アベルが気遣わしげな顔で見つめていた。
「やっぱり君も明日のことを不安に思って……いや、違うかな……?」
アベルは、言葉を切って、じっとミーアの顔を見つめてきた。しばしの後、苦笑いを浮かべて。
「もしかして……あまり関係ないことを、考えていたのではないかな?」
「へ? あ、ええ。よくわかりましたわね」
おずおずと頷くと、アベルは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふふ。当たってよかった。最近、少しだけだけど、君の考えてることがわかるようになってきたんだ」
それから、アベルは真面目な顔で言った。
「君に、きちんと言っておかなければ、と思っていたんだ」
アベルは、体を起こして、真っ直ぐにミーアを見つめる。
「…………はぇ?」
ぽっかーん、っと口を開けるミーアに、アベルは静かに告げる。
「ミーア……ボクは……」
月明りを背にした彼の顔は、ほのかに赤く染まっていた。真剣にこちらを見つめるその目で……精一杯の勇気を振り絞る、彼の心がわかってしまって……。
息を呑むミーアの目の前で、アベルは言った。
「ミーア姫……。ボクは、君のことを愛している。世界中の、誰よりも……。この想いは、誰にも負けるつもりはない」
唐突な告白に、ミーアの頭が一瞬で沸騰する。
「きゅっ、きゅ、急ですわね! アベル……そっ、そんな、唐突に……。シオンと言い、殿方というのは、こういうものなんですの?」
すわモテ期の到来か!? などと、一瞬浮つきかけるミーアだったが、すぐに、アベルの顔を見て冷静になる。
彼が、どちらかというと、暗い顔をしていたからだ。
「急に感じたのなら、すまない。焦ってしまってね……。もう……それを言う資格がなくなってしまうかもしれない、と……そう思ったものだから」
それから、アベルは、寂しそうに視線を逸らした。
「……い、いやですわ。アベル。なんだか、どこか遠くへ行ってしまうみたいに……」
「ボクはどこにも行かないよ。だけど……ボクが君のフィアンセになることは、無理になってしまうかもしれない」
「どっ、どういうこと、ですの?」
「姉のこと……、馬龍先輩にお願いして、レムノ本国に報せを送った。返事はまだ戻ってきていないから、これからボクは、ボク自身の意志で君についていく。だけど、もしかしたら、それが原因で、父の不興を買い、ボクは王子の地位を追われるかもしれない」
「まぁ……! さすがにそんなことは……」
言いかけて、思い出す。
アベルは、確か、父である王との関係がこじれて、国を追い出されて……。それを助けるために、ミーアたちが乗り込んでいった、と……。消えてしまった歴史書には書かれていたような気がして……。
ミーアは、そこで気付いた。
アベルは、自分に想いを告げてくれた。だけど、だから、どうしたい、ということは言わなかった。結婚してくれでもなく、恋人になってほしいでもなく……。
ただ、自らの好意を伝えるにとどめていた。
それは……自身が王子でなくなったなら、ミーアとの結婚は望めないと、彼が思っているから。それでもなお、ミーアと同行したいと願っているからで……。
「仮に、そうであったとしても、気にする必要はございませんわ。あなたは、あなたでしょう?」
そう言うものの、アベルの表情は冴えなかった。
「もちろん、君は人の上辺だけを見ない。地位にも固執しない人だとは知っている。でも、姉が……ヴァレンティナ姉さまがシュトリナ嬢に酷いことをしていたら、ボクは君に顔向けできなくなる。もしそんなことになったら、どうして、君に愛を告げるなんてことができるだろう……?」
「アベル……」
ミーアは、思わず息を呑んだ。彼が何を思い悩んでいたのかがわかって……、それで、思わず笑ってしまう。優しく、笑みを浮かべて……。
「アベル……あなたは、バカですわ」
言ってやるのだ……。
「仮に、あなたが、資格がないと言い張ったとしても……わたくしが、それを許容するとでも思っておりますの?」
そうだ、ミーアは知っている。
自分が、世界中の誰よりも自分ファーストであることを。
アベルがどう思おうが、関係ないのだ。
「もしも、あなたが逃げ出したとしても、国に引きこもっても無駄ですわ。わたくしのほうから、あなたの国に行って、連れ戻して差し上げますわ。あなたのお姉さまもそう。もしも、必要であるならば、強引にでも蛇のもとから連れ帰ってやりますわ」
シュトリナだけでない。アベルの姉も必ず連れ戻してやる。絶対にそうしてやる。
気合を新たに、ミーアは、起き上がり……そしてっ! 見つけるっ!
「ふむふむ……。なるほど」
「べっ、ベルさま、いけません。お邪魔をしては……」
屋根の上に正座をして、じっくりやり取りを見守るベルと、連れ戻そうとする、アンヌの姿をっ!
「ベルっ! あ、あなた、いつから見てたんですのっ!?」
「はい。ミーアお祖母さまと、アベルお祖父さまが、屋根の上を歩いているのを見つけて、急ぎ、駆け付けました!」
「ほとんど最初からですわね……。ああ、まぁ、そんなことだろうと思っておりましたけれど……」
諦めのため息を吐くミーアをよそに、ベルは上機嫌に笑っていた。
「とても、良い記念になりました。ミーアお祖母さまと、アベルお祖父さまが……こんな風に愛を深めていたなんて……」
などと、感動した様子のベルに、横からアベルが声をかけた。
「そうだ。前から聞きたかったのだが、君は時々、ミーアのことをお祖母さまと呼んでいるね。それはいったい、どういう意味なんだい? それに、ボクのこともお祖父さまとか……」
「えへへ、それは秘密です。もしかしたら、そのうち、わかる日が来るかもしれませんけど」
ベルは、いたずらっ子の顔で笑う。それを見て、不思議そうに首を傾げるアベル。その、きょとんとした顔が面白くて、ミーアも笑った。
「そうですわね。いつか、わかりますわ」
「君まで、そう言うのか……」
ちょっぴり不満げなアベルを見て、また笑う。
それは、なんだか……無性に楽しい夜だった。巫女姫との対決を前にして、もっと緊張していなければならないはずなのに……そうとわかっていても、楽しくて仕方なかった。
この夜の思い出は、ミーアの記憶に刻まれて、消えることはなかった。
それは、はじめてアベルに告白された夜の記憶。
そして……それは。