第二百十八話 ルードヴィッヒの悩み
翌日、早々にミーアたち一行に先んじて、火の一族の者たちが村を後にすることになった。
驚いたことに、彼らは一族全員で向かうという。子どもも老人も、女性たちもすべてである。
「巫女姫のもとにいるのは、大切な一族の男衆だ。我らの全員で取り戻すのは当然のこと」
力強く頷き、慧馬はミーアに手を振った。
「ここまでの温情に、心から感謝する。ミーア姫の期待には必ず応えよう」
慧馬に呼応するように、女性たちが力強く頷いた。なんとも心強い様子だった。
そうして、出発する火の一族の者たちを見送って……ミーアは不安そうにつぶやいた。
「さて……上手くいけばよろしいのですけれど……」
「大丈夫ですよ、ミーアさま。きっと慧馬さんなら、上手くやってくれます」
励ますように、明るい声で言うのは、専属メイドのアンヌだった。が、その顔にも隠しようのない不安の色が見て取れた。
そんな二人を見ていて、ルードヴィッヒは思う。
――恐らく、ミーア姫殿下とアンヌ嬢では、不安に思っているところが違うのだろうな……。
ミーアが心配しているのは、恐らく慧馬たちによる説得ではない。それより先の駆け引きについてなのだと、ルードヴィッヒはきちんと把握していた…………把握していた?
――そうだな……。恐らく今回はアンヌ嬢も同行するつもりだろうし、ここは状況を正しく把握しておいてもらうべきだろうな。
すでにルードヴィッヒは心得ている。ミーアの精神的な支柱、その一本は間違いなく、このアンヌであると。
今回のミーアは人質となっているシュトリナのことのみならず、姉と敵対することになるアベルへのフォローもしなければならない以上、その負担はかなり大きい。心の支えはどうしても必要になってくる。アンヌを連れて行かないということはあり得ない。
危険はあるが、ここは来てもらうべきだ、というのが彼の判断である。
大きく一つ頷いて、ルードヴィッヒは口を開いた。
「恐らく、ですが……彼女たちの成功率はそこまで低くないように思います。あるいは、巫女姫は邪魔をしないかもしれませんし……」
「え……? そうなんですか?」
目を瞬かせるアンヌ。対して、ミーアは、
「ふむ……」
泰然自若とした態度で、相槌を打つのみだった。実に堂々たる、王者の気品すら感じさせる見事な相槌であった。
それから、説明は任せた、とばかりに、ルードヴィッヒにチラリと視線を送る。心得たとばかりに頷いて、ルードヴィッヒは説明を始める。
「まず、先日も言いましたが、火の一族の戦士たちは、全員が巫女姫に心酔しているのではない、と私は考えています。呼びかけによってこちらに帰順する者もかなりの数いるのではないかと」
仮に帰順する人数が少なかったとしても、戦力が減るならば、最低限それでも良い。
あるいは、敵の目的が『ミーアを自身のもとへと呼び寄せること』であるならば、むしろ敵としては、最低限の兵力のみを残すことをするのではないか、とさえルードヴィッヒは考えているのだ。
それは、護衛を禁じなかったことと表裏一体の考え方である。敵としては、護衛を付けた状態であっても、ミーアに来てもらいたかったのだ。同様に『ミーアが、敵の数が多いから行かない』という状況も嫌うはずなのだ。
逆に言えば、敵兵の数を理由に、こちらが行くことを拒否しても構わない。
それで巫女姫を怒らせて、シュトリナが害される可能性もあるが……その時には自らの命を以て償おうと考えるルードヴィッヒである。
ここで、ミーアを失う愚はなんとしても避けるべきであると……彼の思考は、常にその基本の上に立っている。
「もしも、現状、火の一族の戦士の中に、巫女姫に心酔した者がいたとして、その最も有効な使い方は、廃城で命を賭して戦わせることではない。かといって不意打ちにより、ミーアさまを仕留めることも難しい。ディオン殿がそばにいる限り、それはかなわぬこと」
狼使いに手一杯になっている隙に、ということも考えられなくはないが、確実性がなさすぎる。千載一遇のこの状況の使い方としては下策だ。
事前に慧馬からは、どの程度の弓の名手がいるか教わっているものの、護衛の手をくぐり、ミーアを射殺せるほどに突出した者はいないようだった。仮にルールー族ほどの腕前の弓兵がいるのであれば別なのだが……。
「とすれば、敵にとっての上策は、戦士たちの中に、蛇の息のかかった者を紛れ込ませること。これは確かに厄介。けれど、間違えたくないことは、今回の行動の目的は、ひとえにシュトリナさまを救い出す、その際の不確定要素を排除することにある、ということです」
ルードヴィッヒはミーアのほうに目を向ける。ミーアは……、
「ふむ……!」
っと、威風堂々とした相槌を返してくれた。
「もしかすると、火の一族の戦士たちの一部には、すでに蛇に転向した者たちもいるかもしれない。今回の策はその者たちを火の一族の中に引き入れることになるかもしれない。そして、その者たちによって、蛇の蠢動を再び招くかもしれない」
むしろ、蛇の戦略としては、そちらのほうがしっくりくる。直接的な戦闘や、戦場における不意を突いての暗殺などは、蛇のやり方ではないような気が、ルードヴィッヒにはするのだ。
敵にされると最も厄介なこと、を指摘したうえで、ルードヴィッヒは断言する。
「しかし、今回の救出作戦においては、その者たちは無力。仮にそのような者たちがいたとして、問題になるのは今より先のこと。処理は先に回しても構わない。要は、蛇の拠点にいる蛇の手の者を極力減らすこと、それこそが目的です」
実動の戦力としての兵士を巫女姫のそばから遠ざけること。それこそが狙いだ。
だからこそ、シュトリナの救出と、火の一族の戦士たちの離反工作を同時に行う必要があるのだ。
「そうだろうな……」
ルードヴィッヒの言に頷いたのは、ディオンだった。
「まぁ、狼花殿もここに向かっているということだし、巫女姫の息のかかった者が混ざっているか否かの判断は任せても大丈夫だろう。というか、それは僕たちが面倒を見ることじゃない。火の一族の問題だ」
ディオンが肩をすくめて言った。
「長期的なことは、今は考える必要はない。今考えるべきは、当面、戦場の舞台になるであろう、蛇の廃城だ。火の一族の戦士たちをその場から排除できるなら重畳。戦士たちの離反を邪魔するなら、それはそれで敵の狙いも推察することができるし、戻ってきた戦士の数が足りないということであれば、どこかで待ち伏せをしているってことになるだろう。ある程度、隠れ潜んでいる人数がわかっていれば、それも有益な情報だ」
ディオンの思考はシンプルだ。彼の視野が捉えるのは、当面の戦場のみ。そこで何が起こるのか、今考えるべきはそれであると、彼は主張しているのだ。
そして、当面の戦場から敵戦力を引きはがすことができるのであれば、後のことは別にして、シュトリナの救出のためには有益なのだ。
ディオンの発言に、ミーアが頷くのを確認してから、ルードヴィッヒは言った。
「これは、あくまでも私見ですが……そして、ミーアさまも薄々、感じておられることかもしれませんが……蛇の巫女姫はかなり話が通じる人間だと私は考えています」
これには、さすがに、アンヌが驚いた様子を見せた。
「話が通じる、って、どういうことですか?」
「言い方を変えるならば、合意の形成がしやすいということ、だろうか。つまり……、敵はミーアさまを拠点に呼び寄せたい。だから、我々が行くのを邪魔するような要素の排除には協力してもらえるんじゃないかと思ってね」
ミーアを自分のもとに呼び寄せる、という目的だけに目を留めれば、火の一族の戦士たちはむしろ邪魔になる。なぜなら、もしも不測の小競り合いでも起ころうものならば、ミーアは即脱出してしまうからだ。
「火の一族の戦士を拠点から遠ざけることで得られるメリット、手元に置いておくことで得られる選択肢の幅というメリット、それを天秤にかけた時、恐らく巫女姫は躊躇なく、戦士たちを手放す……。そんな感触があるんだ」
そうでないならば、それでも良い。敵が、戦士たちを使って拠点の防御を固めるのならば、それに対応した手を打つだけだし、その場合には、やはり、火の一族の者たちによる懐柔策は効果的な手段だ。
敵の心を揺らすことに、大いに役立つだろう。
――ミーアさまが馬合わせに出るとおっしゃられた時には、どうなることかと思ったが……騎馬王国と火の一族を短期間で和解させてしまおうというあの策は、蛇にとって有効な打撃となったわけか。
改めて、ルードヴィッヒは舌を巻く。
シュトリナの誘拐を計算に入れていたとは思わないが、それにしたって、ミーアのしたことは、巫女姫にとって、かなりの嫌がらせになったことだろう。
「問題は……敵の物分かりが良かった場合、本命の策がなにか、ということですが……」
もし、拠点を守る戦士たちを手放してまで……手元の戦力のほとんどを手放してまでミーアを呼び寄せたいのだとしたら……?
そうまでして、やりたいことはなんだろうか? それが、まるでわからなかった。
「そうしてでも、姫さんを呼び寄せる意味がある。相応の策を立てているということだろうな」
ディオンの指摘の通りだった。そして、恐らくミーアが気になっているのもその点だろう。
「いずれにせよ、ミーアさまの周囲はきちんと固めさせていただきましょう」
敵の出方がわからない以上は仕方ない。ともかく、ミーアの警護を完璧にし、どのような状況の変化にも柔軟に対応できるようにすること。それこそが、ルードヴィッヒにできる唯一のことだった。
連れていける近衛の数は限られている上に、そもそも使える手勢がこちらも少ない。皇女専属近衛隊員は腕利きなれど、城に潜入するような技術はなく。唯一、それができそうなのはディオンではあるが、彼の姿がミーアのそばになければ敵の警戒を生むだろう。
レムノ王国の騎士、ギミマフィアスにも、あるいは可能かもしれないが、彼に救出を頼んだ時、それを実行してもらえる確証はどこにもない。
ならば、少数の最精鋭によって、ミーアの周りを固める以外に手はない。
それは、待ちの一手。防御を固め、敵の戦術をすべて受けきる姿勢。そうして、敵の手が尽きた一瞬の間隙をついて救い出す。
敵の手に人質がある以上、ある程度は敵の思惑に乗る。その上でそれを食い破り、生じるであろう一瞬の隙を突く。それしかない。
――正直、人質を取られている以上、イニシアチブは敵にある。天才ならぬ我が身では、敵の戦力を削るのがせいぜい……。あとは、なんとしてもミーアさまにだけは生き残っていただくことを最優先にするしかない。
最善は、シュトリナを無事なまま助け出すことだが……それがかなわぬ際には、きちんとイエロームーン公爵に、見捨てたわけではないと言い訳できる形を作っておく。
それがルードヴィッヒの思い描く、最も可能性の高い未来予想図だった。
けれど、同時にこうも思うのだ。
ミーアの考える最低限は恐らくシュトリナが無事であること……。であるならば、いったいどうやってそれを実現するべきか……。
答えの出せない問いに、頭を悩ませるルードヴィッヒであった。