第二百十話 息を吸うように流される
シュトリナが行方不明になったことをルードヴィッヒが知ったのは、ミーアがゴールする直前のことだった。
ルードヴィッヒとディオン、さらに数名の皇女専属近衛隊員は、ミーアから少し離れて同行していた。
直接的に、馬合わせの助けはできないものの、なにかあった時には、すぐに駆け付けられる位置にて護衛を続けていたのだ。
そうして、二日間の旅程を終え、ホッと安堵しつつ、坂を上っていくミーアを見送ったのだが……そんな彼のもとに、急報が舞い込んできたのだ。
昨晩、イエロームーン公爵令嬢が、南都の宿泊地から姿を消した、と。
現在、聖女ラフィーナの指揮のもと、林族の者たちの手を借りて、辺り一帯の捜索が行われているものの手掛かりはなし。至急、戻られたし。
報せを受けた瞬間に、ルードヴィッヒは思わず舌打ちした。
――俺の判断ミスだ……。狙ってくるのであれば、ミーアさまのほうだと思っていた。
蛇は現在、火の一族の戦士を手中におさめている。その中には狼使いのような強者もいる。だからこそ、馬合わせの最中であっても、ミーアが襲われることを警戒していたのだが……。
「敵を大きく見誤ったか。思えば、馬合わせや、それにミーアさまが出馬されることが決まったのは、ここ数日来のこと。いかに蛇といえど、馬合わせに参加しているミーアさまを狙うのは困難……」
自身の責任を痛感し、歯噛みするルードヴィッヒであったが……。
「いやぁ、間違ってはないと思うけどね」
と、そこで、声をかけてきたのは、ディオン・アライアだった。彼は苦笑いをしつつ、小さく肩をすくめる。
「すべてに備えることはできない以上、姫さんの護衛を優先するのは臣下として当然のこと。それに、南都の守りも薄いというほどじゃない。もしも、敵がイエロームーン公爵令嬢を誘拐したとするなら、敵のほうが上手だったというだけさ。今のところはね」
それから、彼は、わずかばかり眼光を鋭くする。
「今はやるべきことをやるしかない。とりあえず、姫さんには悪いが、ゴールしたらすぐに南都へと戻って、陣頭指揮を執ってもらわないとね」
次にありそうなのは、混乱に乗じてミーアの命を狙ってくること。だから、戦力を分散させるような愚は避けるべきだ。ミーアのそばに戦力を維持しつつ、その戦力をシュトリナの捜索へと充てる必要がある。
それになにより、帝国の叡智を捜索に用いないわけにもいかない。
「そうだな……。それが最善か」
頷き、眼鏡を直しつつ、ルードヴィッヒはミーアのもとへと向かった。
今は、責任をうんぬんする時でもない。すべてが終わった後、改めて、ミーアの沙汰を待つことにしよう、と、気持ちを切り替える。
彼のもとには、警備を担当していた者たちからの辞職の申し出も届いていたが、それもすべてが終わってからのこと。
静かに、彼は今後のことを思案し始めた。
そうして、騎馬王国の族長たちの協力も得て、あたり一帯の大規模な捜索が行われたが、シュトリナの行方はようとして知れなかった。
山族の富馬から提供された部屋にて。報告を受けたミーアは心配そうに眉根を寄せた。
「人買いに攫われたということは、ないかしら? リーナさん、わたくしの血族なだけあって、可愛らしい見た目をしてますし……」
「街の外でと言うならともかく、街の中ではどうですかね……。南都を見た感じじゃあ、治安は悪くはないように見えますし。というか、そもそも、あの食えないお嬢ちゃんが、ただの人買い程度に攫われるとも思わないんですが……」
そう主張するのはディオンであった。
「……ふむ」
彼の見立てにミーアは思わずうなる。
確かに、シュトリナが一般的な悪党に大人しく攫われる姿は想像できない。
「むしろ、悪人を毒か何かで始末するほうが、あり得そうですわね。とすると……やはり」
「蛇の手の者に捕らえられたと考えるべきかと」
沈着冷静なルードヴィッヒの言葉に、ミーアは思わずため息を吐いた。
「やはりそうなりますわね。となると……」
ミーアは腕組みして考え始める。
幸い、ミーアの叡智の源は、すぐ目の前にあった。ミーアの前のテーブルには馬龍が用意してくれた、醍醐羊のホットミルクがあったのだ!
待望の、美味しい美味しい秘伝のミルクである!
生クリームのようなまろやかな舌触り、こってり濃厚なミルクの香りと、ほのかに感じる甘みが、とても素敵な飲み物である。
これで砂糖が一切入っていないという事実に、ミーアは驚いてしまう。
そんな美味なる飲み物をこくり、と一口飲んで、ほふぅっとため息を一つ。
それから、味の分析を始め…………たりはもちろんしない。もちろんである。
さすがにこの緊急事態に、そんなことをしている場合でないことは、ミーアにもわかっているのだ。
ということで、養分をしっかり補給した後、それを燃焼させるように頭をひねる。
――あ、そうですわ。狼は鼻が良いと聞きますし。もしかしたら……。
そうして、ミーアは、ぽつりとつぶやいた。
「慧馬さんにお願いするのが良いのではないかしら?」
それを聞いたルードヴィッヒが、ハッとした顔をする!
「なるほど……。確かに、慧馬殿は族長の妹。彼らの居場所を知っている可能性はあります」
それを聞いたミーアも、ハッとした顔をする!
その発想は……なかったっ!
いや、厳密に言えば、そんなことを考えたこともないではないのだが、その記憶は、例の記憶の彼方にほったらかしになっていたのだ。
「それに、火の一族には貸しがある状況です。協力を得ることも可能かもしれませんが……。はたして、慧馬嬢がどう反応するか……」
そこで、ルードヴィッヒは難しい顔をする。
幸い騎馬王国による、火の一族の受け入れは順調に進んでいる。今は、族長会議に火族の長老、狼花を交えて話し合いを続けていた。
ミーアには大きな恩がある状況と言えるだろうから、断られはしないだろう。
だが……慧馬に、兄の居場所を聞くことは、もろ刃の剣でもあった。
なにしろそれは、恩に着せて、実の兄を売れと言っているのと同義であるからだ。
はたして、そんなことを言って慧馬が気分を害さないものか……。
などというところまで想像し、ミーア、ちょっぴり慌てる。
なにせ、そんなつもりは、もちろん、ミーアにはなかったわけで……。
「え? あ、いえ……。わたくしは……」
計算外の事態にワタワタと否定しようとするミーアだったが……。
「しかし、今はそれしかないのかもしれません」
「ですわよね……」
ルードヴィッヒに「それしかない!」と断言されてしまい、ミーアは厳かに自らの主張を取り下げる!
あのルードヴィッヒがそれしかないと言うのならば、そうなのだ。
「わかっていただけてなによりですわ。では、早速、慧馬さんにお願いしてみましょう」
息を吸うように流される、海月のごとき柔軟さを誇るミーアの思考であった。




