第二百九話 巫女姫とシュトリナ
深い森の奥。忘れ去られた廃城、蛇の拠点にて。
蛇の巫女姫、ヴァレンティナ・レムノのもとに、その日、珍しい客人が訪ねてきた。
ちょうど、テーブルでお茶を楽しんでいたヴァレンティナはやってきた男、火燻狼に優しげな笑みを浮かべた。
「お久しぶりね。燻狼。まさか帰ってきてくれるとは思ってなかったから、驚いたわ」
「おや、巫女姫さま、それは、あんまりな言いよう。ここは、あなたの家、いつでも帰ってきていいのだと、そう温かく送り出してくれたあなたは、どこへ行かれてしまったのです?」
「ふふふ。相変わらず、愉快な記憶違いね。燻狼。あなたを送り出したのは、火の一族の里でしょうに……。もちろん歓迎はしますよ……だけど」
と、ヴァレンティナは、その目を燻狼の隣へと移す。
「駄目よ? 女の子にそんなひどいことをしたら……」
視線の先、そこには、椅子に座らされた一人の少女の姿があった。
愛らしい蜂蜜色の髪の少女、帝国四大公爵家が一つ、イエロームーン家の令嬢、シュトリナ・エトワ・イエロームーンは、華奢な両腕を、後ろ手に縛られて、身動きを封じられた。もぞもぞと、居心地悪そうに身をよじるシュトリナ。その口から声が出ることはなかった。
口には痛々しくさるぐつわが噛まされ、その目には目隠しが巻かれていたからだ。
「そんな風にいじめたら可哀そうよ」
咎めるように言うヴァレンティナに、燻狼は、実に嫌そうな顔をした。
「やめてくれませんかねぇ。ジェムやバルバラと一緒にされたらかなわない。あの二人なら、腹いせに乱暴に扱うんでしょうが、俺は別に、意地悪でやってるわけじゃないですよ? 舌でも噛まれたら、面倒だと思ったんでね」
「その心配はないでしょう。その子は、自分が死んだら、ミーア姫殿下が困ったことになるって、ちゃんとわきまえているでしょう」
そう言われ、燻狼は怪訝そうに首を傾げる。
「そうですかね? でも、このお嬢ちゃん、食う物も食べないし、水も無理やり飲まさないとダメだったぐらいですぜ? てっきり世を儚んで死のうとしてるものとばかり……」
その言葉を証明するかのように、シュトリナの寝巻の襟首には、わずかにシミができていた。
「まだまだ、人の心の把握が甘いわね。それは、あなたに毒を盛られると思ったからではないかしら? おおかた、彼女の意識を奪うのに怪しげな薬でも使ったのでしょう」
呆れた様子でため息を吐いて、ヴァレンティナは静かに立ち上がる。その拍子に、長い黒髪が、しゃなり、と美しく揺れた。
そのまま彼女は椅子に座らされたシュトリナのそばに立つと、かがみこみ、丁寧な手つきで、口に噛ませてあった布紐を外す。
苦しかったのか、ぷは、っと小さく息を吐くシュトリナ。
次いで目隠しを外すと、長く目を塞がれていたからだろうか。まぶしそうに、目を細めた後、シュトリナはあたりを見回しつつ、眉間にしわを寄せた。
「ここ……は?」
けほ、っと、せき込んでから、かすれた声で言う。
「ここはね、混沌の蛇の拠点の一つ。レムノ王国からあまり離れていない場所にある、森の奥深く。廃城を利用しているの」
すらすらと、歌うように言ってから、巫女姫ヴァレンティナは、華やかな笑みを浮かべる。
「そして、私はヴァレンティナ。ヴァレンティナ・レムノ。蛇の巫女姫のヴァレンティナよ」
「……ぇ?」
ぼんやりと話を聞いていたシュトリナだったが、直後、その言葉の意味を理解したのか、瞳を大きく見開いた。
「あーあ……。せっかく、目隠ししてきたのに、そんなに話しちまったら、生かして帰せないでしょうに」
こともなげに肩をすくめる燻狼に、ヴァレンティナは首を振った。
「だから、ご令嬢を脅かすようなことを言ってはだめよ。燻狼。せっかくあなたが生かして捕らえてきたのだから、もちろん無駄に殺すようなことはしないわよ」
っと、優しい口調でそう言ってから、ヴァレンティナはシュトリナのほうを見つめた。
「ちゃんと生きたまま、有効に使わせてもらうわ。いいことを思いついたから……あら?」
そこで、ヴァレンティナは何かに気付いたのか、シュトリナの細い首筋に指を伝わせた。びくん、っと震えるシュトリナの、首にかかった細い紐……それを指先に引っ掛けるようにしてつまみ上げる。
「あら……これは」
「あっ……」
シュトリナの小さな声。無視して、するする、と紐を引いていくと、その襟首から現れたものは……。
小さな馬のお守り(トローヤ)だった。
「ふふふ、まぁまぁ。蛇を裏切ったとは思えないぐらい可愛らしい趣味ね」
ぷつん……と紐を引きちぎり、ヴァレンティナは、手の中の馬のお守りをもてあそぶ。
「あ、だめ。返して……ください」
慌てた様子で言うシュトリナに、ヴァレンティナは楽しそうに笑いかける。
「ふふふ、だーめ」
まるで、子どもをからかうような気安い口調で、馬のお守りを揺らしてから、
「これは、貴女の心の支えになりそうだから、返さない。だって、たぶんこれがあると、あなたの心を…………へし折れないでしょう?」
上目遣いにシュトリナを見つめる。その目つきは、冷たい蛇のようだった。
けれど、それもすぐに変わる。その目はすぐに悪戯っ子のような、無邪気なものへと変わって。
「ふふふ、なぁんてね。冗談よ。これを返さないのはね、これを送って、あの子を呼び出そうと思ってるから」
「あの子……?」
「決まってるでしょう。帝国の叡智ミーア・ルーナ・ティアムーンを、よ」
それから、ヴァレンティナは、馬のお守りを、燻狼に渡してから、
「準備が整うまでは、あなたには、ここにいてもらうことになるわ。あ、そういえば、あなた一人で着替えたり、身の回りのこと、できるかしら? 粗野な方でよければ、誰か身の回りの世話につけることもできるけれど……」
そう言って、ヴァレンティナは燻狼のほうに目を向ける。それに気付いて、シュトリナはブンブンと慌てた様子で首を振った。
その、かすかに青ざめて、怯え切ったような顔を見つめてから、ヴァレンティナは、シュトリナの頬に手を伸ばした。
そっと労わるように、彼女の頬を手のひらで撫でて……、
「怯えた顔もとっても可愛らしいけれど……ふふふ。でも、それ、半分は演技、よね?」
真正面から、シュトリナの目を覗き込む。
「さっき、目隠しをされて猿ぐつわを噛まされていた時にも、私たちの会話にきちんと耳を傾けていた。どうやって情報を引き出して、自分に有利な状況を作ろうか、きちんと考えてたでしょう? おおかた、今も監視をつけられずに済む、とかそういったことを考えているのじゃないかしら? 怯えた態度で油断を誘おうとしているのよね?」
瞬間、すとんっとシュトリナの表情が消えた。けれど、すぐに、その顔は笑顔に変わる。愛らしい、野に咲く花のように可憐な笑みだった。
「なんでもお見通しなんですね。巫女姫さま。人の心を読めるという噂は本当なんですか? それに、お名前からすると、レムノ王国の王族の方……それとも、そうリーナに思わせたいのかしら?」
上目遣いに、探るように見つめてくる。
「あらあら、さすがは、かのイエロームーン家の星持ち公爵令嬢。心が強いのね」
ヴァレンティナは、ぱちぱちと拍手をしながら笑った。
「そうね。名を偽っているならば、あなたにとっては好都合でしょう。それは、あなたに偽りの情報をミーア姫のところに持って帰らせよう、ということになるでしょうし。でも、残念。私は正真正銘、レムノ王国の第一王女、ヴァレンティナ・レムノよ」
「それをリーナに明かすことに、なにか意味があるのですか?」
きょとりん、と可愛らしく首を傾げるシュトリナ。
「それを教えてあげてもいいけれど……。そうね。せっかくゆっくり話をするなら、お茶会をしましょうか。慧馬さんとしようと思っていたのだけど、あなたとも一度じっくりとお話ししたいと思っていたのよ」
ヴァレンティナは、いたずらっぽくウインクして、
「ここには、粗野な人しかいないから、お茶飲み相手に飢えてるのよ。もしも、付き合ってくれたら、なんでも教えてあげるわよ」
「ふふふ、わかりました。まさか、巫女姫さまにお誘いいただけるなんて、すごく光栄です」
そうして、シュトリナは可憐な笑みを浮かべる。完璧な、誰からも愛される少女の笑み。そんなシュトリナに、ヴァレンティナは、満面の笑みのまま顔を寄せて、その小さな耳元で……囁く。
「でもね、その前に……」
シュトリナの体が、かすかに緊張に強張るのが分かった。それを確認してから、ヴァレンティナはからかうように、ゆっくりとした口調で言った。
「お風呂に入るのが先ね。あなた、少し汗臭いわよ?」
「なっ……!?」
思わぬ指摘に、シュトリナの顔が、ひくっとひきつる。直後、その頬が、ほのかに赤く染まる。それは羞恥と怒りに彩られた、むき出しの少女の感情。
シュトリナの”作ったような可憐な笑み”の奥にある素の心に届きうる足がかり。
まるで蛇のように、音もなく、ヴァレンティナは、そこに踏み込む。
「そんなのではお友だちにも嫌われてしまうわよ?」
その指摘に、けれど、シュトリナは堂々と首を振った。
「そんなことない。ベルちゃんはこんなぐらいで、リーナのこと嫌いになったりは……あ……」
顔を上げ、ヴァレンティナを睨みつけるシュトリナ。けれど、直後に、その顔に焦りの色が広がる。なぜなら、
「ふふふ、そう。ベルちゃんていうの。そのお友だち、とっても大切な子なのね? もしかして、あの馬のお守りを作ったのもその子なのかしら?」
「……っ!」
シュトリナは、唇を噛み、黙る。ヴァレンティナと目を合わさないように、そっとうつむいた。
「あはは。愛らしいほどに賢明ね。これ以上、情報を漏らさないように黙るのは、正しい。本当は、全然突かれても痛くないって態度が取れればなおよかったけど、それでも合格点ね」
笑いながら、ヴァレンティナは、再びシュトリナの目を覗き込む。
「もっとも……蛇の巫女姫は、心を読めるかもしれないけど……?」
「…………」
黙り込み、逃げるかのように目をギュッと閉じるシュトリナ。しばし、彼女を観察したヴァレンティナは、ゆっくりと立ち上がる。
「そう、そんなにそのお友だちが大切なのね。なるほど。あなたは蛇にはなれないわね。大切なものを後生大事に抱えていては、蛇にはなれないから」
それから、ヴァレンティナは、歌うように言った。
「ああ、お茶会。とても楽しみ。たくさんお話をしましょうね」