第二百七話 待望の人脈
さて……無事に馬合わせを終え、地上に降り立ったミーアに、歩み寄る者がいた。
「ミーア姫、見事な馬合わせでしたな」
それは山族の長、山 富馬だった。
「ああ……。富馬殿」
素直な賛辞に、いささか当惑したような顔で、瞳を瞬かせるミーア。それも無理のないことだろう、と富馬は苦笑する。
彼自身、まさか、こんなに晴れやかな気持ちになるとは思ってもみなかったのだ。
――落露を手放すなど、死んでもごめんだと思っていたが……。
静かに目を閉じると、浮かんでくる光景があった。
それは、楽しげな娘たちの姿だ。
はじめは、落露の毛並みが泥で汚れることを不快に思っていたのだ。せっかく綺麗に手入れして、大切に育てているのに、あんな走り方をして、と、怒りすら覚えたのだ。
だが……小驪が楽しそうに落露に乗る様子を見て、生き生きと野を駆ける落露を見て――富馬の胸に、ある感情が生まれていた。それは……。
――俺も、馬に乗りたい! 今すぐに!
これである!
…………いや、もちろん、当たり前のことながら、実の娘である小驪が幸せそうに馬に乗るのも、小驪を乗せて楽しそうに走り回る真の娘、落露の姿も、心にグッとくるものはあったのだ。あったのだが……それ以上に胸にこみあげてきたのは、騎馬王国の民としての感情だった。
自分も、馬に乗って、あんな風に熱い勝負がしたい。
いったい、いつから自分は、馬に乗って走る楽しさを忘れていたのだろうか?
足が速かろうが、遅かろうが、そんなことは、本当はどうでもよかったのだ。
ただ無心に馬に乗って走る。どんな馬でも構わない。それだけで胸は高まり、楽しさがこみ上げる。そんな当たり前のことを、忘れていたなんて……。
――俺もあのように、血が沸くような、限界ぎりぎりの勝負がしてみたいものだ。
ミーアと小驪の、純粋な勝負が富馬の胸に甦らせた感情。
それは、幼き日に覚えた衝動。
馬とともに、いつまでも、どこまでも遠くへ。
馬とともに、鳥よりも、風よりも疾く駆けたい、と。
今すぐにでも馬に乗りたいという衝動を抑えながら、富馬はミーアに深々と頭を下げる。それは、素直なお礼。
久しく忘れていた、人生の喜びを思い出させてくれた恩人への、心からのお礼。そして、
「悔しいが、駿馬である落露に相応しいのは、ミーア姫殿下のようだ。潔く、落露を譲ろう」
どこかスッキリした気持ちで、富馬は言った。
――ああ、例の取り決めですわね。
殊勝な態度で話しかけてきた富馬に、目を白黒させるミーアであったが……すぐに、その意図を察する。
――ははぁん、なるほど。富馬さんも、わたくしと同じことを考えておりますわね。
馬合わせが終わればノーサイド。恨みっこなしにするのが、後々のため。
富馬はそう訴えて、落露を手放さなくて良いようにしたいのだろうと、ミーアは敏感に察していた。
人は、心に一つの眼鏡を持っている。その、価値観という名の眼鏡を通して、相手を見るのだ。
――まぁ、でも、確かにそうですわね。ここで落露をもらったとしても、後々に禍根を残しそうですし。ここは恩を売るために遠慮をしておくのがベストですわ。
素早く計算してから、ミーアは穏やかな笑みを浮かべる。
「ええ。その取り決めについてはもちろん知っていますわ。求められれば、譲らなければならない。されど、対戦相手であるわたくしが求めなければ……」
「それは……我が落露がいらないということ……ですかな?」
不意に、声が低くなる。
見れば、一転、富馬がギロリと睨んでいた。
――ああ、これ、面倒くさいやつですわ!
もらったらもらったで恨まれるし、断ったら断ったで恨まれる。八方ふさがりな状況に、ミーアは頭を抱える。
そもそも、別に落露は欲しくないミーアである。逃げるならば、荒嵐を借りてくればよい。それに、東風も頼りになることが証明されたわけで……。恨みを買ってまで落露をもらう必要などどこにもないのだ。
俺様系の馬か、頼りになるお兄さんタイプの馬のほうが、どちらかというとミーアの好みに合うのだ!
――落露はなんというか、お嬢さまで、少し頼りない感じもしますし。
なにも考えずに乗っていたら、きちんと逃げてくれないような、そんな予感がするのである。
でも、ここで断ることは、馬の価値を認めないことに繋がってしまって、それはそれで相手の機嫌を損ねるという……きわめて面倒な状況だった。
――困りましたわね。馬に乗らないので興味がない、などと言うこともできませんし。こうして、わたくしが騎馬王国の方々にも劣らぬ優れた乗り手であると証明してしまった以上は……。
若干調子に乗る、海月式乗馬術の開祖ミーアである。
なんとか、相手のプライドを傷つけずにお断りする方法はないものか……ミーアは思案する。
――つまり、要は「本当はもらいたい」という気持ちを表明しつつも、固辞する必要があるわけですわね。うーむ……それなら……。
刹那の思考。その後、ミーアは口を開く。
「落露が素晴らしい馬であることは疑いようもない。それは、ともに馬合わせを戦ったわたくしが、一番わかっておりますわ」
まずヨイショ。これが基本。そのうえで、
「しかし、その素晴らしさは、小驪さんが乗ってこそのもの。そうではなくって?」
付け加える。もらわなくても良い理由を。
落露は素晴らしい馬。けれど、それは“人馬一体の素晴らしさ”であると。
すなわち、その素晴らしさはミーアの手元に来た時点で半減してしまうのだと……訴えるミーアである。
巧みに、ヨイショに、馬をもらわなくて済む理由を上手く絡めていく。
それに対して、富馬は……驚愕に目を見開いていた!
「なっ……! そっ、それでは、小驪もろとも、自分に差し出せと言うのか!」
とんでもないことを言い出した! そして、それに静かに頷くのは……小驪だった。
「父上……。私も、ミーア姫と腕を競い合った身。敗残の身には何を言う資格もない、ですの。ミーア姫が求めるのであれば、私は潔くこの身を……」
「違いますわ! わたくしは、帝国の姫。そのような、人買いのようなことを言うはずがございませんわ!」
光の速さで否定するミーアである。なんだったら、光の速さを超えて、若干、遡行気味に反論を繰り出す、時の超越者ミーアである。
――何てこと言い出すんだ、こいつらっ!
それから、ミーアはアワアワとあたりを見回した。
聖女ラフィーナに、自分が人買い同然の発言をしている、などと思われるのは、絶対避けたいところであった。
そんな発言をしたが最後、ギロチンが徒党を組んで襲ってくるに違いないのである。
……けれど、不思議なことに、ラフィーナの姿は、どこにも見えなかった。それどころか、なぜか、ルードヴィッヒやアンヌ、ベルの姿も見当たらない。
――はて、なにかあったのかしら?
首を傾げつつ、とりあえず、目の前の問題を処理しようと、ミーアは気持ちを切り替える。
「そうではありませんわ。富馬殿。わたくしは、小驪さんと落露との絆に感銘を受けましたの。そして、わたくしもまた、東風との間に絆を築いている、その絆というのがどういうものであるかは、みなさまほどではないにしろ、わかっているつもりですわ」
ミーアの発言に、感慨深げに頷いている一団があった。
それは、馬合わせ二日目に、ミーアに随伴した者たち。
ミーアが「東風、もうちょっと速く走ってくれないかなぁ、ケーキとかご褒美あげるって言ったら速くならないかなぁ」などと思いつつ、必死に話しかけている姿を見て、感動してしまった人たちである。
「ご謙遜ですな。ミーア姫。我々は姫が、疲れた馬をどのように労っておられたか、しっかりと見ておりました。ミーア姫と、あの馬との間にある強い絆を否定する者はおりますまい」
「……ええ。そう言っていただけると嬉しいですわ」
一瞬、なんのことを言ってるのかしら? と思わないでもないミーアだったが、とりあえず、頷いておく。そして、咳ばらいを一つして、
「えーと、そう。ともかく、その絆はとても貴重なもの。人と馬とは別ちがたいものですし、愛馬との絆は誰であれ、引き裂くべきではない。そう思っておりますの。だから……」
ミーアはここで、周りの者たちを見る。
いつの間にか、ミーアの周りには、その言葉に耳を傾ける騎馬王国の者たちの姿があった。彼らはみな、好意的な、優しい、馬のような瞳でミーアを見つめていた。
今ならば……なんだか、なにを言っても聞いてもらえるような気がする!
ミーアは一歩踏み込む。
「わたくしが求めるのは、絆を引き裂くことではなく、新たに絆を作ることですわ」
そうして、ミーアは小驪のほうに目を向けて、
「わたくしが困った時に助けてくれるような、素敵な、お友だちを求めておりますの」
ミーアが求めるのは同盟関係とは少し違う。利害の一致によって成り立つ、国と国との関係、その必要性は理解できるものの……正直、頭を使うのは面倒なのだ。
そのあたりのことはルードヴィッヒに任せておきたいところである。
ミーアが求めるのは、もう少し都合がいいもの。複雑な利害を度外視した友情である。
よくよく考えれば、騎馬王国の南都は実に良い立地である。帝国でなにかあった際、脱出の途中で立ち寄るには非常に良い場所なのだ。
――騎馬王国の方は頼りになりそうですし、ここはなんとしても、友情関係を築いておきたいところですわ。
そうして、ミーアは小驪のほうを見た。
「だから、小驪さん……もしよろしければ、わたくしのお友だちになってくれないかしら?」
ミーアの視線を受けた小驪は、ほわぁ……っと吐息を吐いてから、無言で頷くのだった。
かくて、ミーアは待望の人脈を得たのだった。
国民すべてが腕利きの騎兵といえる騎馬王国に……。
騎馬王国の南東、レムノ王国に対して影響を行使できる人脈を……。