第二百五話 決着
最後の直線に入ったのはミーアが先だった。が、それを追ってすぐさま落露の姿が現れる。
その差はさらに、じり、じりっと縮まっていく。
――さすがに、速い。それ以上にものすごーく粘り強いですわ!
ミーアが自分の足で走っていたのであれば、坂道を登り始めたところで、ギブアップしているところである。
ふーふーと、落露の熱い息遣いを間近に感じつつ、ミーアはぐぬぬ、っと呻く。
負けても良い状況。とはいえ、後ろからじりじりと追いつめられるのは、あまり気分がよろしくなかった。
さらに、落露は、それでは止まらなかった。一度、距離をとり、大きく膨らむようにして前に出る。ほぼ、真横に並ばれた!
「くっ! まだですわ。まだ負けませんわ。あと少しですもの!」
ミーアは、東風を叱咤激励しようと口を開き、
「東風ぅうううひゃあああ!」
そのタイミングで、東風が加速! 再び、雄叫びめいた悲鳴を上げてしまう。
気迫のこもったミーアの絶叫、それを見た人々はさらに熱狂する。
なにしろ、絶妙のタイミングだったのだ。
それは、勝負の瀬戸際。馬の競争に目の肥えた騎馬王国の者たちから見ても、そこは一つの分水嶺だった。
長い距離を走り、ようやく追いつき、追い抜こうという、そのタイミングでの加速である。それは、相手の心を折りに行く加速なのだ。
「この勝負所で、吠えるミーア姫の姿の、なんと勇ましきことか……。やはり、只者ではなかったか……」
などと、剛馬あたりがつぶやいていたとしても、なんの不思議はなかった。
「まだ、ですのっ! 落露!」
ミーアに対抗するように、小驪も叫ぶ。それに応えて、落露が加速。懸命に東風の後ろに追いすがる。
「絶対に、絶対にっ! 負けない、ですのっ!」
小驪の熱い気持ちに背中を押されるようにして、ぐぐんっと落露の体が前に出る。再びじりじりと距離を詰め、ついにはその鼻先が東風の前に出る。
負けじと、東風、足を速める。
抜きつ、抜かれつの鍔迫り合い。
実力は拮抗。気迫は伯仲。
このような一歩も譲らぬ勝負の場では、しばしば、小さな小さな要因にて、勝負が決することがある。
そして、異変は静かにやってきた。
それは風。坂の上から吹き降ろすような風。朝からずっと吹いていた寒風が、向きを変え、ミーアたちに向かって正面から吹いてきたのだ。
まるで、天に挑まんとする挑戦者を叩き落そうとするような、意地悪な風。その一陣の大風に、真っ向からぶつかるは、低く、地を滑るように坂を上る、もう一つの風だった。
東の風の名を持つ馬は、向かい風に負けることなく、猛然と坂を突き進んでいく。
春を運ぶ春風のごとく、その走りは力強く、のびやかで……。
重さを感じさせぬ走りは、背に翼持つ天馬のごとく、軽やかだった。
顔に当たる強風に、思わず顔を伏せるミーア。
「東風、任せましたわよ! 突き進みなさい!」
ミーアの指示に応え、ひときわ大きく東風が嘶いて……。勢いそのまま、ゴールへと飛び込んだ!
刹那の静寂……直後の大歓声!
反射的に顔を上げた時……、横には落露と小驪の姿はなくって。
慌てて、後ろを振り向けば、遅れて入ってくる小驪たちの姿が見えて……。
「ああ……私、負けた……ですの?」
脱力した、茫然とした顔でつぶやく小驪が見えて、思わずホッと胸を撫でおろしそうになった――次の瞬間だったっ!
「あ……」
びゅうっと強く吹き付けてくる風。それに押されるようにして小驪の体が後ろに傾いだ。
「え……?」
それは、すべてが終わった瞬間に生じた、ほんのわずかな心の隙。
吹き付ける冷たい風、二日間の行程によって、その身は、小驪自身が思っている以上に消耗していたようで……。
「小驪さんっ!」
慌ててミーアが伸ばした手。けれど、当然のごとく小驪に届くことはなく……。
風に吹き飛ばされるようにして、後ろ倒しになった小驪の体は、頭から地面へと落ちていき……そうになって! その時だった!
「我が友、ミーア姫の勝利に、ケチはつけさせない」
凛々しい声の直後、灰色の影が駆け寄った。小驪の襟首をくわえると、そのまま、強引に着地を決めたもの、それは……一匹の大きな狼だった。
地面に尻もちをついた小驪は、目をまん丸くして、目の前の獣を見つめた。
「あ……あ、お、おお、かみ……?」
その顔が見る間に青く染まっていく。騎馬王国の者たちが慌てて、小驪に駆け寄ろうとするが……。
「い……今の、私を、助けてくれた……ですの?」
小驪は、震えながらも狼を、そして、歩み寄ってくる少女、火 慧馬のほうを見た。
「対戦相手のお前が怪我でもすれば、ミーア姫が素直に勝利を喜べなくなるからな。友として、見過ごすことができなかったのだ」
「そう……ですの。あの、慧馬さん、この狼、撫でても平気、ですの?」
「ああ。噛みついたりはしない……、はずだ」
「……そう…………ですの。ん? はずっ!?」
驚いて飛び上がる小驪に、慧馬は明るく笑いかけた。
「ははは。冗談だ。我の命令がなければ噛みついたりはしない」
「……冗談が冗談になってないですの」
小驪は、はぁ、っと疲れたようなため息を吐き、それから、狼の首筋を撫でた。
「助けてくれて、ありがとう、ですの」
そのお礼に、狼は、どこか他人事のように顔を背けると、ふわぁあ、っとあくびを返すのみだった。
かくて、馬合わせの帰趨は決した。帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンの吹かせた東風が、騎馬王国になにをもたらすのか。
知る者はまだ、一人もいなかった。
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