第二百三話 某族長プロデュースのトンデモ説、浸透す
小驪と別れてから、ミーアはひたすらにゴールを目指していた。一度も振り返ることなく、ただ前だけを凛と見つめたまま……。
雨は依然として降り続いていた。いや、それは、もはや雨ではなく、半ば凍ったみぞれのようになっていた。けれど、ミーアのまとう防寒着は、その程度の寒さをものともしなかった。
さて、休憩場所にて、交代した随伴の騎手たちもまた同じように防寒着を着ていた。その中に、前日の護衛を担当した木剛馬の姿もあった。
「まさか、このために、あの服を着ていたとは、な……」
感慨深げにつぶやきつつ、剛馬は、疑問に感じていたことを思い出していた。
なぜ、重みがある防寒具を着てきたのか。その答えがこれだった。
あれを着ていれば、ある程度、冷たい雨の中でも問題なく進むことができる。
だが、問題は昨日の時点でこんな天気になるなんてこと、誰も予想していなかったことだ。
この時期に急に天候が崩れ、こんなにも冷え込むなんてことを、いったい誰が予想できただろうか?
「なるほど、ミーア姫殿下は、天馬のご機嫌うかがいが上手いらしいな」
隣を走る、別の部族の者が軽口をたたくが、それに、剛馬は静かに首を振った。
確かに、今の状況はミーアが完全に天候の崩れを読み切って利用したように見える。だが、本当にそうなのだろうか?
勝ち目のない馬合わせの最中に、偶然天候が崩れ、偶然、それを読み切って利用する? そんな偶然が重なることが、果たしてあり得るのか。むしろ、これは……。
「まるで、これは天馬に天候を悪化させたようだ」
天の万象を司る馬に命令を下す。そんなトンデモなことを、あろうことか、木族の族長が口にしてしまったものだから、始末に悪かった。
その、トンデモ説は、すぐに周りの騎馬王国の騎手たちに伝わり……浸透した!
彼らの中で、その推測は、こう……ストンと腑に落ちてしまったのだ。
「天馬を従える姫……」
そのように、ちょっとアレなことをつぶやきつつ、彼らは茫然とミーアに視線を向けた。
さて、そんなある種の畏怖の視線を受けているミーアなのだが……、まったく気付いていなかった。
タッタカタ、タッタカタ、という東風の足運びに、ひたすらに合わせることにのみ集中する。
「ふむ、まぁ、悪いペースではない、ですわね。うん……」
などと、自分に言い聞かせつつ、ミーアはひたすら無心に前を見つめていた。
正直、途中までは、
「ねぇ、東風、もしも勝ったら美味しい野菜ケーキなど用意いたしますけれど、どうかしら……?」
なぁんて東風を懐柔しようとしていたミーアだったわけだが、それはもう諦めた。(ちなみに、馬に声をかける姿を見た騎馬王国の者たちは、馬合わせの一番辛いときに、馬を労おうとしているのはさすがだなぁ! などと大変感心していたのだが、まぁ、どうでもいい……)
そう、ミーアは知っているのだ。無理なものは無理、と。
それは今までさんざん、思い知らされてきたことなのだ。どれだけ強く命じたとしても、ないものはないのだ。
帝国皇女の権威を以て、強い言葉で命じたところで、わがままを言ったところで、無理なものは無理なのだ。食料もお金も、ないものはない。
そして、足の速さだってまたしかり、である。速く走れと言われても、無理なものは無理なのだ。
「そもそも、わたくしは、走ることに関しては素人。ならば、わたくしにできるのは東風を信じることのみ、ですわ」
そうして、ミーアは東風に身を委ねる。自身にできるのは、ただ、海月のように静かな心で、乗ることのみなのだ。
「それに、急に慣れないことをやっても失敗するだけ。焦るべきではありませんでしたわね」
革命が起きた時、急いで逃げたいからと言って、突然馬に乗れと言われても無理である。
だからこそ、事前に馬に乗れるようにしたのだし、こうして遠乗りの訓練も行っているわけで。咄嗟の時にできることとは、幾度も練習を重ね、体に身に着けたことのみなのだ。
「それと同じこと……。勝ちの目が見えたからと言って、焦りは禁物。今までと同じように、東風に任せますわ」
そうして、いくつかの水場で休憩を挟みつつ、進む。進む。暇なので、東風の歩数をカウントしつつ、進む、進む、進む。
どれぐらい時間がたっただろうか。ふと、空からの日の光を感じて、ミーアは空を見上げた。
いつの間にか雨はやみ、暗雲は千切れ、ところどころから覗く青空からは、温かな日差しが差し込んでいた。
そして、その光に照らし出されるようにしてそびえ立つ丘が見えた。
「あの丘は……もしかして」
「そうです。あの丘の頂上の岩がゴールです」
そばにいた騎手が説明してくれる。
「ああ、ようやく、たどり着いたんですわね。長かったですわ」
「ミーア姫っ!」
と、その時だった!
遠く背後から響く鋭い声が、ミーアの耳に届いた。
「来ましたわね……小驪さん」
ミーアは後ろを振り返る。っと、猛然とこちらに近づいてくる小驪と落露の姿があった。
跳ね上がった泥で顔を汚しつつ、ニヤリと勝気な笑みを浮かべる小驪。どこか吹っ切れた様子の小驪を見て、ミーアもちょっぴり闘争心に火がついて……。
「わたくしも負けませんわ!」
そう言い放ち、それから、ちょっぴり水を吸って重くなった上着を、バサッと脱ぎ棄てる。
そうして身軽になったミーアは、
「行きますわよ! 東風」
実に格好よく、東風に声をかける。
……とはいえ、まぁ、正直なところあまり期待してはいなかったのだ。
相変わらず、東風はマイペースを維持している。落露が本気で走ったら、到底逃げ切れないだろうなぁ、と、そう思っていて……。
直後、東風は嘶き、そして――その身が加速する!
「……はぇ?」
ぐんっと荷重がかかり、一瞬、後ろに吹き飛びそうになったミーアは、慌てて、足を踏ん張り、体勢を保とうとする。
「なっ、ちょっ、きゅ、急に?」
などと言いつつも、前傾姿勢になる。
最後の戦い、坂の攻防が始まった!