第二百二話 小驪の矜持
薄暗い平原を行くミーアたち一行。そんな彼女らの目の前に、ぼんやりと焚火の火が映り込む。
「あれは……」
などと怪訝そうな顔をしていた小驪だったが、なにかに気付いたのか、ミーアのほうを振り返る。が、ミーアは素知らぬ顔で、馬を前に出し、焚火のほうに向かう。
焚火を無視して進もうとした小驪も、周りの騎馬に促され、仕方なしにミーアの後を追った。
馬を降りると、早々に湯気の立つ容器を渡される。中には乳白色の液体が入っていて、そこからは、なんともあまぁい香りが……。
――ああ、素晴らしいですわ……。理想的な飲み物ですわ。
早速、ミーアは容器を両手で持つと、ふーふー、息を吹きかける。
熱い湯気が頬に当たる度、氷が解けるように、肌のこわばりが消えていくような気がした。
そうして、はふほふと一口……。
舌の上を転がるのは、熱々の、とろみがある液体だった。卵を溶かしたスープにも似た食感、けれど舌に感じるのはハチミツのような濃厚な甘みだった。
喉を通り、腹へと落ちていく熱は、じんわり、ぽっぽと体を温めてくれて……。ミーアは「おふぅっ!」と、ため息を吐いた。
――なるほど。ただ甘いものを用意するだけではなく、体が温まるものを用意してくれたわけですわね。素晴らしい気遣いですわ。さすがは騎馬王国の方たちですわ。
「ミーア姫……」
ふと見れば小驪は、湯気を立てる容器を両手で握りつつ、ミーアに不満げな視線を向けていた。
ミーアはとぼけた様子で、
「誤解があるといけないので言っておきますけれど、これはあくまでも、わたくしが飲みたいから頼んだだけのことですわ。あなたにも飲まさないと、わたくしもいただけないから小驪さんにも同じものを用意してもらっただけのことですわ」
しれっと言ってのける。
そんなミーアの顔をまじまじと睨んでから……ついに、小驪は吹き出した。
「ミーア姫、あなたは、ほんっとーーーに! お人よし、ですの」
「あら、ですから、それは……」
「わかっている、ですの。あなたのその行動は、すべて自分の言葉に重みを持たせるためのもの。馬合わせは互いに刃を突きつけあう戦ではない。方針が定まった後は、互いに協力をするためのもの。だから、悔いなく、後腐れないように配慮した」
それから、小驪は自らの手を見つめて、握り、開きを繰り返す。
「このまま体が冷えたままで馬に乗り続けたら危ない。手がかじかめば手綱を掴むことも難しく、落馬の危険もある。怪我をしたら、気持ちよく馬合わせで決着がつかない」
小驪は、確信に満ちたドヤァ! な顔で言い放つ。
「そんなところ、ですの?」
「……ええ、まぁ、そんなところですわ」
もちろん、そんな意図はないのだが……まぁ、そのままにしておいたほうが、雰囲気がよくなりそうなので、そういうことにしておく。臨機応変の海月、ミーアは波に逆らうことの愚を知っている。
それから小驪は、一口、乳粕酒を飲んで……。
「ふふ、甘くて、とても美味しいですの」
小さくため息。その後、なにやら吹っ切れたような顔をミーアに向けて、
「ミーア姫、馬合わせは大切な儀式ですの。だから、手加減はしないですの」
一転、キリッと凛々しい顔で言った。そうして、
「だから、私は、全力で馬合わせに臨むために、ここで少し火で体を温めてから行こうと思う、ですの。このまま馬に乗り続けるのはやっぱり危ないですの」
「あら、それならわたくしも……」
「ミーア姫は先に行くといい、ですの」
「へ……? いえ、でも……」
「私は勝つために、それが最善だと考えるからそうする、ですの。ミーア姫も勝つために最善のことをしてもらいたいですの」
それから、勝気な笑みを浮かべる。
「心配しなくっても、落露は名馬中の名馬。すぐに追いついてみせるですの。必ず、最後の坂道の前までに追いついて見せるから、覚悟するといい、ですの」
その口ぶりに、ミーアは察する。
――なるほど、借りは作らない、と、そういうことですのね……。
そう、これは、きっと小驪なりの、後腐れのないやり方なのだ。
小驪の矜持を認めたミーアは、一つ頷くと、
「わかりましたわ。では、楽しみにお待ちしておりますわね。お先に失礼いたしますわ」
そうして、よっこーいしょっ! と東風に飛び乗ると、そのまま駆け出した。
――ふむ、まぁなんにせよ、小驪さんとも仲良くなれましたし。これならば、負けても問題ないはず。これで心置きなく負けられますわね……。
東風の心地よいリズムに合わせて、ニッコニコ顔で進むこと、しばし……。
――ん? 負ける?
ふとそこで、ミーアは気付いた。唐突に……気付いてしまった。
後ろを見る。
小驪は追ってこない。差がぐんぐん開いていく。
――あら……、これってもしや、チャンスでは?
ここにきてミーアはようやく、思い至る。自分が勝利する、その輝かしい可能性に。
脳裏に照らし出されるのは、従者たちの顔。自身の勝利を疑わず、信じ切った顔で応援してくれた彼らの顔だ。
勝ちの目が見えているこの状況、もしもここで不甲斐ないことをしては、後々の禍根になりかねなくって……。
「こっ、これは……行くしかありませんわよ。東風!」
自らを押し上げる大波を感じ、ミーアの声にも気合がみなぎる。
手綱をしっかりと握りしめ、東風の首筋を撫でる。っと、それに応えるように、東風が嘶いて……!
そしてっ!
――いつもと変わらない速度で走っていった!
マイペースをいつでも維持する東風なのであった。




