第二百一話 ミーアの叡智の高度な計算に基づいて
天馬――それは天を舞う、翼をもった馬である。
大空を自由に飛び回るその馬は、まさに天空の支配者といっても過言ではない、伝説上の生物である。
ところで……その天馬、実のところ、帝国と騎馬王国とでは意味合いが若干異なっている。
『寒馬の訪れ日』という表現がある。それは、騎馬王国における冬季の始まりの日だ。
騎馬王国では、冬は馬の形をしてやってくる。冬だけではない。春も、夏、秋もそうだ。季節は馬の姿をとって、草原地帯に現れ、駆け抜けるものなのだ。
では『天馬』はどうだろう?
これも同じことなのだ。騎馬王国では、天の事象もまた、馬の姿で認識される。
天空の支配者とは、すなわち『天の事象の支配者』なのだ。
雷鳴は天馬の嘶き、風は天馬の羽ばたき、雨は天馬の流す涙だ。
馬合わせの二日目は、天馬が機嫌を損ねたような天気だった。
空を覆う一面の漆黒の雲原。そこを駆け抜ける天馬の嘶きが遠くに響き、激しい羽ばたきによって生じた風が、下界の草原に吹き荒れていた。
「なんだか、嫌な天気ですわね。今にも雨が降ってきそうですわ」
風に踊る髪を片手で押さえつつ、ミーアは空を見上げた。
そして、ミーアの悪い予感はすぐに当たることになった。
野営地を出発して早々に、黒雲からポツリ、ポツリ、と雨が落ち始めた。幸いにして、天馬の機嫌はまだ、そこまで悪くはないらしく、雨粒は大きくはない。せいぜいが小雨といったところだ。
あくまでも今のところは、であるが……。
「ああ、やはり降りだしましたのね。やれやれ……」
愚痴りつつ、ミーアはモコモコスーツのフードを被る。
雨具としても機能するモコモコスーツのおかげで、雨にも強いミーアである。この程度の雨、なんでもないのだ。
「ふむ、少し肌寒いぐらいですし、これは、アンヌに感謝ですわね……」
雨で濡れたところに吹き付けてくる風は冷たい。一気に秋を通り越して、冬になってしまったようにすら感じる。
「そう言えば……この年は、寒い年でしたわね……。すっかり忘れていましたわ」
そんなことをつぶやきつつも、ミーアは前方に目をやった。
雨にけぶる景色。油断をすると、見失ってしまいそうだったから……。
「東風、少し急ぎましょう。もう少し落露との距離を詰めますわよ」
ミーアの声に、ブルルーフっと鼻を鳴らし、東風が足を速める。
水で湿った草原を走りつつも、ミーアは小さくうなる。
「それにしても、小驪さん、風邪などひかなければ良いのですけれど……」
そんなミーアの言葉に応えるように、びょうっという冷たい風、それに続いて、くっちゅん、という小驪の可愛らしいくしゃみの声が響いた。
「小驪さん、大丈夫ですの?」
見えてきた背中に声をかける。っと、小驪はキリッとした顔で振り返り……
「馴れ合いはしない、ですの。今は馬合わせの最中ですの」
っと言ったは良いのだが……、直後に、寒そうに鼻をすすっていた。何度かこすったからか、鼻の頭は赤くなっていた。
「ですけど……、とても寒そうですわ」
「こっこ、このぐらい、草原で生きる騎馬王国の者なら、なっ、なんでもない、ですの」
そうは言うものの、その唇はちょっぴり青くなっていた。
「そうなんですのね。でも……」
と、ミーアは周りの随伴の騎馬に目をやった。
昨夜のうちに、剛馬たちから引き継いだ騎馬王国の者たちは、みな、ミーアの視線に首を振った。
「我々が手を貸すわけにはいきません。ミーア姫は、馬合わせの最初からその服を持ち込んでいますから、ここで雨具を渡したら不公平になってしまいます」
「そう……。あ、そういうことでしたら、どこかで雨宿りをして、焚火でもしましょうか。それで雨がやんでから……」
「ふ、ふふ、そっ、そんな口車には乗らない、ですの。ミーア姫は、その馬を休ませたいから、そんなことを言っておりますの。ずっとそんな重たい服を、着てきたのだから、その馬は疲れてるはず、ですの!」
小驪は、ミーアのほうを見てから、勝気な笑みを浮かべた。
「これ以上、私の誇りを傷つけないでほしい、ですの。ミーア姫、これは馬合わせ。これは、すべてをかけた勝負。全力で競い合わなければいけない、ですの」
歯を食いしばりながら言う小驪。
そうまで言われては、ミーアとしてもなにも言えない。言えないが……。
――これは、ますます真剣勝負じみてきておりますわ。少し場を和ませておく必要があるのではないかしら……。
ミーアとしては、ピリピリしたムードは好まないのだ。負けた時に敵としてではなく、ともに馬合わせを乗り切った者として、ある種の仲間として扱ってもらいたいからだ。
そのほうが好待遇を望めるに違いないし。
――ふむ、ということは……。
考えることしばし……。やがて、ミーアは一つの結論に至る。
――ここは、甘いものがよろしいですわね!
……別に、自分が食べたいから、ではない。昨日の夜のお鍋はたいそう美味しかったが、デザートが足りなかったな……などと思ったからでは決してないのである。ないのである!
そうではなく、甘いものを一緒に食べれば、決闘などという雰囲気にはならないだろうという、緻密な計算に基づく結論である。
ミーアの叡智が出した、高度な計算に基づく結論なのである。
そうして、ミーアは随伴する水族の騎手の女性に声をかけた。
「ちょっとよろしいかしら。わたくし、なにか甘いものが欲しいですわ」
「…………は?」
唐突なミーアの発言に、女性はきょとりん、と首を傾げる。
「いえ。ミーア姫、ですから、先ほど申し上げたように馬合わせの最中に我々がそのように、ミーア姫にだけ手を貸すことは不公平に……」
「ならば、小驪さんにも出して差し上げれば、何の問題もございませんわ」
あっさりと言って、ミーアは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あなたはご存知ないかもしれませんけれど、わたくし、わがまま姫として有名ですのよ? この程度、わがままのうちにも入りませんから、覚悟しておくことですわ」
さて、ミーアの言葉を聞いた騎馬王国の女性は、一瞬、考える。
なぜミーアがこのようなことを言い出したのか……。話の流れから考えるに、おそらくミーアは小驪に同情していたはずで。では、ミーアが求める“甘いもの”とは……。
彼女はすぐに思い至った。
騎馬王国には、乳粕酒という飲み物がある。
それは、馬乳酒を作る過程で出る残り滓を使って作る、甘いホットミルクのような飲み物だった。温めて飲めば、体の芯までポカポカしてくる、風邪知らずの飲み物なのだ。
――そうか。ミーア姫は凍える対戦相手に暖を取らせようとしているのか……。しかも、自らのわがままを押し通す、という形で……。
理解した瞬間、彼女は感銘を受けた。戦う相手をすら気遣う、帝国の叡智の慈愛に。
「なるほど。異国の姫君の心遣いには答えないわけにはいきませんね」
そうして、彼女の指示のもと、すぐに伝令が駆けていき、中継地点に熱々の乳粕酒が用意されることになるのだった。
このことは、後の時代に騎馬王国のことわざ「敵に熱い乳粕酒を送る」の語源となるのだが。
まぁ、それはともかく、馬合わせは、いよいよ佳境へと突入していくのだった。