第二百話 幸せな夢の終わりのように……
馬合わせの一日目の夜。南都では、ひっそりと一つの事件が起きていた。
「ん……ぅん?」
それは、深夜のこと。
シュトリナは廊下のほうから聞こえてきた音に、目を覚ました。
コツ、コツ……と床を踏む、それは、ひそめた足音だった。
瞬間的に蛇の暗殺者を疑うシュトリナだったが、足音は部屋の前を素通りする。
方向からすると、どうやら、建物の外に向かっているらしい。
建物の部屋割りを思い出し……それから事前にチェックしておいた護衛の配置を頭に思い描きながら、シュトリナは首を傾げた。
――よくよく考えれば、護衛の目を誤魔化せるような暗殺者がリーナに足音を気付かれることはないかな。
それから、彼女は隣のベッドで寝ていたベルのほうを見る。毛布をベッドから落として、ちょっぴりはしたない格好になっているベルに苦笑い。そーっと毛布を掛け直してあげる。
それから、こっそり扉を開けて、廊下に顔を出す。っと、歩いていく少女の後ろ姿が目に飛び込んできた。
「あれは……」
長い黒髪を揺らしながら歩く少女、ピンと伸びた背筋が凛々しい彼女の正体は――火慧馬だった。
――慧馬さん、こんな時間に、どこに……?
きょろきょろと辺りを窺いつつ、建物の外へと向かっていく慧馬。胸騒ぎを覚えたシュトリナは、寝間着の上から上掛けを羽織ると、こっそり部屋を抜け出した。
野生の勘だろうか。慧馬の行く先には護衛の姿はない。重鎮であるミーアが馬合わせに出ているため、戦力を分散させなければならなかったのと、もともと外からの侵入を警戒するための配置だからだろうか。
外に出るのは、案外、簡単にできてしまうのだ。
――ルードヴィッヒさんも、ミーアさまの護衛の手配で手が回らなかったんだろうな……。ディオン・アライアがいれば、気付いて止めるだろうけど、ミーアさまについて行ってるし。
そんなことを思いつつシュトリナは、静かに慧馬の後を追う。難なく建物を出た慧馬は、どうやら厩舎のほうに向かっているようだった。
「……もしかして、慧馬さん、一人で出ていこうとしてる? ん?」
と、その時だった。慧馬の前から、何人かの人影がやってきた。
「あら? 慧馬さん? こんな時間にどうかしたの?」
月明りの下、涼しげな髪を揺らして現れたのは、ラフィーナ・オルカ・ヴェールガだった。
「聖女ラフィーナ……。こんなところでなにを?」
慧馬の怪訝そうな声に、ラフィーナは穏やかな笑みを浮かべる。
「ミーアさんの勝ちを祈っていたのよ」
ふと見れば、彼女の後ろには護衛としてだろうか。林馬龍の姿まであった。
「……ラフィーナさま、こんな夜中に馬龍先輩と一緒にいたら、あらぬ誤解を招きそうだけど……。まぁ、ヴェールガの従者の人も一緒みたいだから、平気かな?」
小さく首を傾げつつ、シュトリナは状況を見守ることにした。
「それで、質問を返すようだけど、あなたは何をしているの? 慧馬さん」
「それは……その、そう。遠乗りに……」
「こんな時間に、一人で……?」
疑わしそうに上目遣いで見つめるラフィーナに、
「いや、夜の遠乗りはなかなかいいものなんだぞ? それはラフィーナ嬢ちゃんもこの前……」
「馬龍さん……」
ゾクリ、と……なぜだろう、シュトリナの背筋に鳥肌が立った。
涼しげな笑顔を浮かべたまま、馬龍のほうを振り返るラフィーナ。その背中に、シュトリナは、なんとも言えない威圧感を覚えてしまって……。
どうやら、それで、馬龍にも通じ……
「ああ。そうだった。秘密だったな。ははは」
てなかった!
――秘密って言っちゃったら、まずいんじゃないかな……。
などと心の中でツッコミを入れるシュトリナと、
「馬龍さんっ!」
悲鳴を上げるラフィーナ。先ほどの威圧感はどこへやら、それはどこか気恥ずかしさにまみれた、少女のような声だった。
どうやら、なにかあったらしいが……それはさておき。
ラフィーナは、小さく咳ばらいをする。
「慧馬さん、もしかして、あなた、一人で出ていこうとしているのではないかしら?」
その静かな問いかけ。慧馬はギュッと拳を握りしめた。
「ミーア姫が我らのために体を張って頑張ってくれていることはわかっている。だからこそ我がなにもしないわけにはいかないではないか」
ゆっくりと顔を上げ、慧馬は続ける。
「……族長会議のやり取りを見て……いやそれ以前からずっと考えていたことなのだ。火の一族は……我と兄上がいなければ、すんなりと騎馬王国に受け入れてもらえるのではないか……とな。問題になっているのは、狼を使う術なのだ。だが、あれは誰もが使えるものではない。族長である兄と我のみが使えるものなのだ。であれば……」
「慧馬さんが狼を連れて、火の一族から出ていけば、それですべての片が付く、と?」
ラフィーナの問いかけは、ほとんど感情のこもらない、平坦なものだった。それに気付いているのかいないのか、慧馬は構わず続ける。
「火の一族のみなは優しい。だから、我を追い出そうとはしないし、守ろうとしてくれる。でも、それに甘えることはできない。我が出ていくのが一番確実な方法だ」
「おい、それは……」
口を挟もうとした馬龍を片手で制して、ラフィーナは小さく首を振った。
「そう。残念だわ。慧馬さん。あなたは、ミーアさんの良いお友だちだと思っていたのよ?」
ラフィーナはため息を吐いて……それから、上目遣いに慧馬を睨みつけた。
「本当の真友なら……ミーアさんの勝ちを決して疑ったりはしないんじゃないかしら? 少なくとも私は信じてるわ。ミーアさんの真友として」
ラフィーナの中で、ミーアの扱いが結構スゴイことになっているわけだが……、それを指摘する者は、ここにはいなかった。
「勝ち負けの問題ではない。ミーア姫の肩に我らの命運をかけること、要らぬ重荷を負わせること自体が……」
「お友だちに迷惑をかけたくない、ですか?」
慧馬の言葉を遮って、ラフィーナが言った。唇を噛みしめる慧馬に、厳しい口調でラフィーナは続ける。
「でもそれは、あなたの気持ちを楽にしたいだけ。それはただの逃げです。ミーアさんにも、あなたを守ろうとしている火の一族のみなさんに対しても、失礼です」
「……しかし」
「大丈夫。ミーアさんは、絶対に負けませんから。あなたが、ミーアさんを友と呼ぶのなら、あなたは信じるべきです。そして、迷惑をかけたと思うなら、今度はあなたがミーアさんを助けられればいい。助け合ってこその友ではないですか?」
少しも揺らがない、芯の通った声でラフィーナは言うのだった。
「よかった。ラフィーナさまが、上手くまとめてくれそう……」
やり取りを見て、ホッと安堵のため息を吐くシュトリナである。正直、ラフィーナが出てこなければ、きっと、自分には説得できなかっただろうから。
シュトリナは、慧馬の判断が正しいと思っていた。
なにしろ、慧馬と狼がいなくなれば、火の一族は文句なく、騎馬王国に帰還することができるのだ。
ミーアがこれ以上、無理をする必要もなくなるのだ。
だから、むしろ、シュトリナとしては慧馬の背中を押してやる必要があって……。
それが合理的な考え方というもので……でも、
「そっか。リーナは、慧馬さんを引き留めてもいいんだ……」
なぜなら、ミーアがいるのだから。
ミーアがしようとしていることのためには、それこそが正しいことで……。だから、シュトリナは、優しい判断をしてもいいのだ。
そんな、優しく温かな世界にいられるのが、とても嬉しくって……だからだろうか?
……背後から近づいてくる存在に気付くのが、致命的に遅れてしまった。
突如、がばっと抱きすくめるようにして押さえつけられる。
「――んぅっ!?」
同時に、口と鼻に布が押し当てられた。
甘ったるく危険な匂いを認識すると同時に、シュトリナはその正体に気付く。
――あ、これ、ダメなやつだ……。
慌てて、手足をバタつかせるも、すぐに体が痺れて、力が入らなくなる。
「んっ……んんぅ……」
抵抗むなしく、かくん、っと膝が折れる。フワッと、まるで酔っ払ったような感覚。意識がふわふわと、あいまいに揺れて……。
――ベル、ちゃん。
その声は、音をなすこともなく……。
「いやはや、まさか、こんなところで裏切り者を見つけられるとはねぇ。やれやれ、俺は、ガキの扱いは苦手なんだが……」
ぼんやりとした思考に、その声が忍び込んでくる。まるで狡猾な毒蛇のように。
「まぁ、巫女姫さまは人を使うのがたいそうお得意な方だから、きっと裏切り者も、毛の一筋すら無駄にせずにお使いになるだろうて。せいぜい損なわぬよう丁重に運ぶとしよう」
薄れゆく意識の中、そんな言葉を聞きながら、シュトリナは闇の中へと沈んでいく。
それはまるで、幸せな夢の終わりのように……。
ミーアがいないのでシリアスです。