第百九十七話 ミーア、キャッキャウフフの水かけ遊びを楽しむ
落露の急な方向転換、急加速に即座に反応するは東風。
速度を上げ、落露の尻尾を追いかける。
一方のミーアは、その動きに「うひゃっ!」と情けない悲鳴を上げた。
ちなみに……ミーアの魂は急なことで大慌てだったものの、肉体のほうは無意識にバランスをとっているため、周りからは、慌てている演技に見えてしまっているのだが……まぁ、それはさておき。
落露が向かっていった先は、わずかに下り坂になっていた。そこを、吹き下ろす風のごとく落露が駆け下る。ぐんぐんと差が開いていき、落露の姿が遠くなる。
「くっ、まぁ、そうなりますわよね。やはり、途中までは仲良くのんびり行こうというのは、虫がいい話でしたわ」
つぶやくミーアであったが、それでも、なんとか小驪に追いすがる。と、すぐに見えてきたのは川原だった。
非常に浅く、幅が広い川。穏やかな流れの中に駆け入った落露は、水しぶきをあげながら、その中を駆け抜ける。
それを追って、東風も川原に足を踏み入れた。
「なるほど。落露、素晴らしい速さですわね。さすがは、月兎馬で……ぶわっ!」
直後、ばっしゃーんっと、落露が跳ね上げた水しぶきが、ミーアの顔を直撃する。
前方、小驪が振り返り、ちょっぴり勝ち誇った顔をする。が……それはいささか性急な反応だった。
なぜなら、ミーアは……その程度ではびくともしないからだ!
それもそのはず、ミーアは、あの無人島ですでに泳ぎをマスターしているのだ。下弦の海月などという異名を持つミーアは水陸両用の姫。この程度の水をかけられたところでなんともないのだ。
いや……むしろ……、
「うふふ。少し暑かったぐらいですし、ちょうどいいですわね」
髪をふわっと揺らしつつ、気持ちよさそうに微笑んですらいた!
そうなのだ。モコモコスーツで、いささか体温が上がっていたものだから、水浴びが非常に気持ちよかったのだ。
さらに、それだけで終わらなかった。冷えてクリアになったミーアの脳みそが、キリリッと冴え渡る!
――ふむ、これは、使えるかもしれませんわ!
一瞬の閃き。ミーアは今の川原での決闘を、水の掛け合い遊びにしてしまおうと思いつく。
激しい競争を"楽しい遊び"に演出してしまおうというプランである。当初の、途中までは仲良く遠乗りしましょう、というプランを、ミーアはまだ諦めていないのだ。
となれば、やられっぱなしでは楽しい水の掛け合いにはならないので……。
「東風、小驪さんたちの前に。せっかくですから、お返ししてあげましょう」
水の掛け合いで、一方的に相手をやっつけたのではつまらない。水をかけ、かけられてこそ、楽しい遊びになるのだ!
ミーアの意を受け、東風が加速する。一気に落露の前に出た東風はそのまま、後ろ足で水を思いきり跳ね上げる。
「きゃあっ!」
小驪の可愛らしい悲鳴を聞きながら、ミーアは上機嫌に笑った。
「ふふふ、お返しですわ! 小驪さん」
鼻歌交じりに言いながらも、ミーアはふと思う。
――しかし……この『前に出て水を引っかけてくるやり方』は荒嵐を思い出しますわね。もしや、血の繋がりがあったりするのかしら……? それとも、月兎馬の中には、そういう態度が悪い奴が多いとか……。
などと思っていると、東風がわずかばかりコースを変える。
見れば再び、落露が前方に出て、水をかけてこようとしていた。
「あら? もしかして、わたくしが水をかぶるのを気にしてくれたのかしら?」
問いかけるも、東風は、耳をぴくり、と後ろに向けるだけで、答えることはなかった。
「うふふ。さすがは近衛の馬ですわね。じゃじゃ馬姫の扱いをよく心得ておりますわ」
ミーアの笑い声に、どこか誇らしげにぶるるっと鼻を鳴らす東風だった。
「くぅ、やられた、ですの……」
前髪から水滴を滴らせつつ、小驪が悔しそうに歯噛みする。
頭から水をぶっかけられれば、相手の冷静さを奪えると思っていたのに、結果はどうだ?
ミーアはまったく動じないどころか、あろうことか……。
「お返しですわ。小驪さん!」
などと、楽しげに、勝ち誇ったように笑いながら、反撃に転じてきたのだ。
まさか、反撃を受けるなどとは思っていなかった小驪だったから、これには動揺してしまった。ついつい、無様な悲鳴まで上げてしまったのだ。
――ナメていたのは、私のほうだった、ですの……。
ここにきて、ようやく小驪は気付いた。
帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンは、普通のお姫さまではない、ということに!
レムノ王国との交流を通して、小驪は、他国の貴族令嬢とも面識があった。
そんな彼女が知る令嬢の中には顔に水がかかることを怖がったり、嫌がったりする者が多かった。だから、急に顔に水をかけられれば動揺したり、怒ったり。少なからず冷静さを失う、そのはずだったのに……。
――まったく動揺せずに反撃してくるなんて想定外もいいところ、ですの。
完全なる計算外、されど、それ以上に、小驪が驚いたのは、簡単に抜かれ、前に出られてしまったことだった。
落露と東風の力の差は歴然のはずだった。にもかかわらず、あっさりと前に出られた。そのショックはことのほか大きかった。
馬の脚力に差があるにもかかわらず、抜かれたとすれば、それは自分の乗馬技術が劣っていることの証明にほかならない。
乗りづらい川原を選び、勝負を挑んでおきながら後れを取る。この屈辱はとても大きくて……。
「ぐっ、まだまだ。勝負は始まったばかり、ですの。次こそ、目にもの見せてやる、ですの」
悔しげに、うめくようにつぶやく小驪だった。
後になって、小驪は思う。
この時点ですでに自分は、帝国の叡智の術中にはまっていたと。完全に冷静さを失っていたのだと……。
冷たい焦燥は、気付かぬうちに小驪の体にまとわりつき、じわじわとその身を蝕みつつあった……。